Go to contents

50年前にドイツに向け発った彼ら

Posted November. 16, 2013 05:31,   

한국어

1963年12月21日、韓国人123人が金浦(キムポ)空港を発った。当時、西ドイツと呼ばれていたドイツに向かうドイツ派遣炭鉱労働者の第1陣だった。彼らの乗せた飛行機には、引率公務員の経済企画院のイ・チャンジェ事務官、特派員の東亜(トンア)日報のノ・サンウ記者が同乗していた。最近は、鉱員という言葉を使っているが、その当時の時代的空気を感じるためには、やはり鉱夫という言葉のほうが、より自然だ。

彼らを皮切りに、1977年まで7900人あまりの鉱夫と、1万1100人あまりの看護師が、住み慣れないドイツに向かった。金を稼ぐために志願した人たちの中には、名門大学の卒業者や中退者も多かった。一度もやったことのない鉱夫に見せかけるため、手に練炭をつけて、わざわざ黒く作り上げたというエピソードは、今聞いても胸が打たれる。

当時、韓国は120あまりの国連加盟国のうち、1人当たりの国民所得が最下位圏の国だった。大学の存在感は高かったが、大学を卒業しても就職できる企業はほとんどなかった。地下1000メートルの異国の地の炭鉱の中で石炭を掘ったり、病院で亡くなった人の遺体を洗うきつい仕事をしようと、高学歴者らまでが競争に飛び込んだ唯一つの理由、それは貧しい国で生まれた罪だった。個人の能力は優れていても、国が弱く、貧しければ、ろくに人扱いされないのは、今もかつても変わっていない。

鉱夫と看護師のドイツ派遣は、日本植民地からの独立以降、韓国人らの大規模な海外進出の初事例だった。彼らが送ってきた金は、1ドルも肝要だった韓国経済には干ばつの後の慈雨のようだった。ドイツ派遣鉱夫連合会が09年発行した「ドイツ派遣鉱夫白書」は、「外貨獲得の初の鍬入れ」と表現した。続けて、ベトナムや中東に向かった国軍将兵らや労働者らからの送金も、経済発展に貢献した。

1960年代前半、80ドル前後だった韓国の1人当たりの国民所得は、1978年は1000ドルを突破した。年間1億ドルを下回っていた輸出は、ドイツ派遣最後の年の1977年、100億ドルを越えた。1960〜1970年代の跳躍を基に、韓国は、第2次世界大戦後、独立国のうち、シンガポールなどの小規模国家を除けば、ほぼ唯一に先進国入りの門前まで来ている。政治的曲折もあったが、歴史の大きな流れから見れば、この半世紀間、大韓民国が歩んできた道は、未曾有の誇らしい記録だ。

産業化時代、ドイツやベトナム、中東に行ってきた若い韓国人らは、すでに50〜70代となった。最下位圏の後進国から中進国を経て、先進国の入口まで走ってきた現代史を、頭だけでなく体で知っている世代であり、個人と共に国を考える気持ちが強い。経済的産業化や政治的民主化を達成した後、わが社会の一部から現れた退行的左傾化を食い止めてきた主役らでもある。暗い情熱に嵌って、大韓民国の達成を貶める人たちも、彼らの貢献を否定するのは難しいだろう。私は、50代以上の韓国人らを「偉大な世代」と呼びたい。

1ヵ月後になれば、ドイツ派遣鉱夫の第1陣が、韓国を離れてから50周年を迎える。先輩世代が貧しさの苦痛を子孫に引き継がせないために、この半世紀間流してきた血や汗、涙を振り返るきっかけになればと思う。鉱夫の第1陣が金浦空港を出発した来月21日を前後に、朴槿恵(バク・グンへ)大統領や鄭烘原(チョン・ホンウォン)首相が、ドイツ派遣50周年の歴史的意味を評価し、感謝の気持ちを表明するのもよさそうだ。時代は変わったが、当時、国民や政府、企業が貧困から脱出するために苦心し、努力したその精神だけは、先進国入りを目前に控えている時点で、低成長の泥沼に嵌っているような息苦しい現実を打開するのに、依然有効だと信じている。