60年前の1950年6月24日土曜日の夜、ソウル龍山(ヨンサン)では、蔡秉徳(チェ・ビョンドク)総参謀長をはじめとする陸軍首脳部が、前方部隊の師団長を呼び、陸軍将校クラブ開館パーティーをしていた。彼らは、25日未明まで酒とダンスを楽しんだ。国軍将兵の3分の1は、週末に外泊や休暇を取っていた。陸軍首脳部が酒に酔っていた時、ソ連製T−34戦車を先頭に北朝鮮軍が、北緯38度線を越え、破竹の勢いで攻め入り、ソウルを3日で陥落した。米軍の撤収後、戦争に備えていなかった国軍は、洛東江(ナクトンガン)まで敗退を繰り返し、大韓民国は、息を吹きかければ、消えてしまうロウソクの灯りも同然だった。国連安保理の侵略糾弾と国連軍の派兵決定、21カ国(戦闘兵力16カ国、医療支援5カ国)の参戦、マッカーサー国連軍司令官の仁川(インチョン)上陸作戦がなければ、大韓民国は金日成(キム・イルソン)治下の「朝鮮民主主義人民共和国」に統合され、漆黒の60年を送ったことだろう。
国軍は延べ100万〜130万人、外国軍は約200万人が、韓国戦争に参戦した。国軍約15万2000人、国連軍約3万7000人(米軍約3万3000人を含む)が戦死した。今日、韓国の5000万人の国民が享受する自由と繁栄は、国連軍と韓国軍が流した血の代価であると言っても過言ではない。あの時、彼ら「自由と祖国の守護者」がいなければ、世界10位圏の経済大国が可能だっただろうか。今日の若者が「テ〜ハンミングク」を叫びながら、闊歩することができただろうか。
若い世代の中には、韓国戦争がいつ起きたのか、誰が挑発したのかさえ知らない者が多い。韓国戦争を正しく知らない世間知らずな左派は、韓国戦争を「統一戦争」や「民族解放戦争」と解釈する。北朝鮮の金日成主席が主張した北侵説や左派修正主義学者らが、一時掲げた「南北交戦中勃発説」は、90年代にソ連の外交文書が公開され、ソ連の承認と支援を受けた南侵であることが白日の下に明らかになったことで、居場所を失った。政府は、将来の世代へ韓国戦争の正確な意味を伝える教育は、大韓民国のアイデンティティを正すことと直結しているということを肝に銘じなければならない。
韓国戦争と海軍哨戒艦「天安(チョンアン)」沈没は、安保態勢の緩みという点で似ていた。50年の年初、北朝鮮は韓国側の警戒態勢を知るために頻繁に挑発をしかけ、国軍は3度、非常警戒令を下した。しかし、いざ北朝鮮が南侵準備を完了した6月23日には、「特別な動きはない」として、非常警戒令を解除した。軍首脳部が決定的に安易な判断をしたのだ。合同参謀は、昨年11月の大青(テチョン)海戦後、北朝鮮の報復の可能性に備えることを海軍に指示した。しかし、海軍は聞き流し、合同参謀も履行を確認しなかった。天安艦沈没の2、3日前、北朝鮮の潜水艦基地から潜水艇3隻が消えた情報を受けても、平然と白翎島(ペクリョンド)海域を航海した。
北朝鮮が、赤化統一の野心を捨てていないことは、韓国戦争当時も今も少しも変わっていない。12年4月17日に予定通り、韓米連合軍司令部の解体と戦時作戦統制権の返還が実施されるなら、北朝鮮は喜ぶだろうが、韓米間ではこの問題に関する議論が進んでおり幸いなことだ。
韓米同盟は、李承晩(イ・スンマン)初代大統領が、韓国戦争南侵の直後、マッカーサー国連軍司令官に委譲した作戦指揮権(50年7月)と米国から勝ち取った韓米相互防衛条約(53年10月)、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が創設に携わった韓米連合軍司令部(78年)体制に基づいている。このような米国依存型の防衛概念は、20年以降、実質的に変化する可能性が高い。自主国防を準備し、北朝鮮の急変事態と南北統一に備えなければならない重大な課題が、我々に与えられている。
韓国戦争は、韓国の自由民主主義体制を守護するための戦争だった。北朝鮮が南侵を通じ、意図した社会主義式統一ではない自由民主主義と市場経済を基礎にした統一でなければならないことは当然だ。最近、一部では、北朝鮮に対し、「平和」を掲げる動きも現れている。「同じ民族」のスローガンが弱まり「平和」に変わったのだ。平和を拒む人はいないが、国防力の後押しのない平和は虚構だ。
参戦勇士の精神を称え、今も病床で苦しみ、生活が難しい負傷者や家族を支えることに消極的であってはならない。北朝鮮に生存する約500人の国軍捕虜を帰還させることも、最後まであきらめてはならない。住民を餓死に追い込み、核開発で大韓民国や国際社会の平和を脅かす北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)独裁体制を終息させ、統一を成し遂げることは、我々の世代に与えられた使命だ。
骨身に染みる痛みも、長い歳月が流れれば、傷跡が癒え、苦しみの記憶もかすかになる。しかし、戦争を起こした金日成主席の子孫が核開発をし、天安艦沈没のような挑発を犯す状況で、韓国戦争は決して忘れられた戦争にはならない。