00年6月23日、蔚山(ウルサン)・太和江(テファガン)周辺にボラ1万匹余りが、真っ白な腹を露にしたまま、水に浮かんだ。雨水と一緒に汚染物質が一挙に川に流れ込み、魚の集団死がおきたのである。太和江は1964年、蔚山工業団地が造成され、1997年、蔚山市人口が100万人を超えて広域市へと格上げされるまで、30年間あまり死んでいった。蔚山は、「腐った川」の都市として記憶に残った。
◆ボラの集団死に衝撃を受けた蔚山市は、1995年から太和江再生に乗り出した。太和江は、工場からの排水に劣らぬほど、生活汚水や排水による汚染も深刻だった。蔚山市は、下水管を設置した上で、下水処理場を新たに建設し、住宅街の生活下水が川に流れ込まないようにした。川底にたまった汚泥を除去し、川の下流に4キロに渡り、竹の森を整備した。企業や市民団体は、川辺や水中浄化に参加した。00年に川に放した鮭が、3年後の03年、故郷に戻り、太和江の復活を知らせた。竹の森には、白さぎが集団で生息し、日暮れの頃、悠然と泳ぐかわうそも目に付くようになった。
◆「2人で歩いた太和江の川辺に/竹の森はそのままなのに…」(蔚山アリラン)、「青い川の水が流れる/この都市で、私は、私はあなたと出会った…/一里の竹の森は、川の水が沈むように、夕日の太和江で…」(太和江恋歌)。「死の川」だった太和江が、流行歌の歌詞のように、生態河川として生まれ変わった。4年前に太和江を訪れた一人の市議会議員は、「10年前は汚染度が似ていた太和江は、生態河川として生まれ変わったのに、光州(クァンジュ)川は相変わらず死の川だ」と嘆いた。光州川は今も、汚染物質の流入に苦しんでいる。
◆朴孟雨(パク・メンウ)蔚山市長は、「環境は人が努力した分だけ、きっちりと返す」と語った。05年から、「太和江再生に向けた10年間のマスタープラン」を取り仕切ってきた朴市長は、生態河川に満足せず、「都心の中の生態の森」を構想している。漢江(ハンガン)や錦江(クムガン)、洛東江(ナクドンガン)、榮山江(ヨンサンガン)の主要4河川再生事業への一部の反対論者は、太和江は06年、防砂堰を撤去し、蘇ったと主張しているが、それよりは、生活の汚水や排水の遮断が功を奏した。4河川の堰は水を貯水し、渇水期にも水量を一定に保つことができるというメリットがある。朴市長は、「主要4河川事業に反対する人々は、太和江を見て回れば考えが変わるだろう」と主張しているが、政派的な政争に明け暮れしている人々であり、はたしてそれができるだろうか…。
洪権熹(ホン・グォンヒ)論説委員 konihong@donga.com