「西部戦線で、陸軍第1歩兵師団と米騎兵師団、英グロースター部隊が崩壊し、李承晩(イ・スンマン)大統領が大きく落胆した。そこで、海兵隊が投入された。韓国の海兵5000人が、中国共産軍4つの師団4万2000人の兵力を阻止した。毎日が戦闘だった。495日間、うんざりするほど戦闘が続いた」
韓国戦争当時、海兵第1戦闘団副団長(中佐)として活躍したコン・ジョンシク元海兵隊司令官は、1952年3月17日から休戦協定が調印された53年7月27日まで続いた「長端・沙川江戦闘」の状況を鮮明に記憶していた。
休戦会談が行われた52年3月、海兵第1連隊は、米軍海兵1師団とともに臨津江(イムジンガン)より北にある長端・沙川江(チャンダン・サチョンガン)地区に投入された。第1連隊は、板門店(パンムンジョム)東北側の高浪浦(コランポ)地区に場所を陣取った。高浪浦地区は、東南側に臨津江が、西側に沙川江が流れる。北高南低の地形で、味方の作戦に制限を伴う不利な場所だった。
当時、休戦会談では、各部隊が陣取った場所を基準に、軍事境界線を設定しようという議論が進んでいた。誰が高地を占領するかによって、国境線が引かれる状況だった。首都ソウルに通じる長端(沙川江)地区に対する中国共産軍の攻勢は執拗だった。
「戦争中、私は海軍艦長から海兵指揮官になり、米国の海兵隊から講習を多く受けた。私の周囲には、米海兵隊将校8人と副士官などの歩兵、地上戦、戦車、艦砲、砲兵の専門家がいて、適切に支援してくれ、戦時には夜も戦術を話し合った」
海兵第1連隊も、戦車中隊、工兵中隊を補強し、戦闘団に再編成された。52年10月、中国共産軍は、沙川江の辺にある前哨基地を手に入れるために攻撃してくるなど、2つの師団を動員し、4度に渡り、大規模な攻勢を行った。
「戦闘団長だった金ソンウン大佐は、人海戦術を展開する中国共産軍に対抗し、敵軍が30〜100メートル前まで来るのを待った。近くに来れば、韓米の海兵は戦車砲で集中砲射撃を浴びせた。当時、韓国は米軍第3飛行師団の支援を受け、制空権を確保することができた。そのため、兵力でも中国共産軍を阻止し、未明に戦闘終了時は、中国共産軍の死体があちこちに転がっていた」
第1連隊の戦闘団は、初期の頃は中国共産軍に多少押されたが、戦車部隊を前進配置し、敵の接近ルートを事前に把握する戦術で中国共産軍の攻撃を阻止し、ソウルを死守した。この戦闘で、韓国側は、1つの大隊の兵力を上回る海兵隊員776人が命を失い、3212人が負傷した。彼らの犠牲により、祖国の山河が守られたおかげで、軍事境界線を韓国側に有利に設定することができた。
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