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日帝の朝鮮語抹殺、3・1運動で一時後退も一貫して推進

日帝の朝鮮語抹殺、3・1運動で一時後退も一貫して推進

Posted January. 02, 2010 08:55,   

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日本帝国は1910年の韓国併合後、4度にわたって朝鮮教育令を通じて、段階的に朝鮮語の抹殺に乗り出した。1911年の1回目の教育令は、まず朝鮮語の母国語の地位を剥奪した。各学校で国語の科目は日本語が占め、韓国語は「朝鮮語および漢文」という名前の副科目に追いやられた。学校で教える「朝鮮語および漢文」の時間は、日本語の時間に比べて半分か3分の1しかなかった。初等教育でも、朝鮮語の科目を除くすべての教育用語に日本語が強要された。

1919年の3・1運動は、日本帝国のこのような強圧的な朝鮮語追放攻勢を大きく後退させた。1920年、韓国語新聞である東亜(トンア)と朝鮮(チョソン)の創刊を許可したことが代表的な例だった。東亜日報は創刊号を出し、10日後の1920年4月11日から13日までの3日間、「朝鮮人の教育用語に日本語を強制することを廃止せよ」という社説を1面に掲載した。教育効果に焦点を合わせたこの社説の背景が分かる記事が、1920年6月15日の「朝鮮語は朝鮮語で」という記事だ。問答形式の同記事は、朝鮮語の教育時間ですら日本語で教え、家庭でも日本語で会話する習慣を真っ向から批判した。

しばらく影を潜めていた日本帝国の朝鮮語抹殺策動が再び本性を現わしたのは、1934年の東亜と朝鮮のハングル普及運動のヴ・ナロード運動を中止させてからだった。その2段階目の措置が、1938年の第3回朝鮮教育令を通じて、「朝鮮語および漢文」科目を選択科目に転落させ、1年後には各学校で、朝鮮語の授業を事実上廃止したことだった。

東亜日報は1937年11月10日、「再び学制改革に関して」という社説を通じて、「朝鮮語科の廃止運動はすでに論及しており、朝鮮の地域的特殊性を無視するもので、不可能であることは言を待たない」と主張して反発した。朝鮮語抹殺策動の3段階は、まさにこのように抵抗する東亜と朝鮮の廃刊(40年8月)だった。朝鮮語学会の中心人物を弾圧、拘束した朝鮮語学会事件(42年10月)はその完結だった。

43年4月に公布された第4回朝鮮教育令で、朝鮮語科目が削除されたことは、その完結の公式宣言に相違なかった。しかし、1943年当時、朝鮮人の日本語普及率(22%)は、台湾の日本語普及率(62%)の3分の1の水準にすぎなかった。「悲しい母国語」を抵抗の磐石に昇華させた先人のことを考えると、「英語を教えますか。言語を教えますか」と言って、子どもたちの考え方まで英語化しようとする行為は、自制されるべきではなかろうか。



confetti@donga.com