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元ハンファ監督の金寅植氏「成績が悪かったのは私のせい」

元ハンファ監督の金寅植氏「成績が悪かったのは私のせい」

Posted November. 11, 2009 08:39,   

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「朝っぱらから記者からの電話が鳴りっぱなしで、何のことかと思ったら、今日、イルグ大賞(元野球選手の集まりのイルグ会が贈る賞)のことを報道資料にして回したんだ。野球人から贈られる賞だから、意義深い。でも、少し残念だ。WBCのことで贈られるのだが、どうせもらうのなら優勝していたら良かったのに…」

プロ野球・ハンファの金寅植(キム・インシク)顧問は、「ハンファの監督」として賞をもらうのではないことを知っていた。今年9月25日、三星(サムスン)との最後の試合が終わって以来、ユニホームを着ていない。2−1で勝って彼に最後の勝利をプレゼントした選手らはグラウンドで土下座をして、グラウンドを離れる師匠に丁寧に頭を下げた。

「涙が出るところだった。予想できなかったことだったから。選手たちには本当に申し訳ないと思う。代表チームを引き受けたため、きちんと世話することができなかった。負傷者も続出して…。何もかも私のせいだ」

紆余曲折があった代表チーム監督の選任の過程について聞いた。もしかして、本当はやりたかったのではないかと聞いた。同氏は、「とんでもない」と頭を横に振った。

「06年1回大会の時も(体の調子が悪くて)散々苦労したので、またやりたいとは思わなかった。ところが、結局、河日成(ハ・イルソン、元KBO事務総長)にやられたんだ(笑)。大田(テジョン)で大詰めの練習をさせていたところ、連絡が来た。ソウルのあるカフェで待ち合わせをした。夕食を食べなかったので、片隅の部屋で一人で食事をしていたのだが、店内にいる河総長を見たら、グラスに一杯注がれている酒を一気に飲んだのだ。一口食べてからまた視線を向けたら、深刻な表情でまた『一気飲み』をしてるじゃないか。『どうしたのか』と聞いたら、代表チーム監督の話を切り出された。私が見ている時だけ酒を飲んでいたのだが、その時は知らなかった。その後は、尹東均(ユン・ドンギュン=KBO技術委員長)まで来て、頭を下げて頼まれた。一応考えさせてくれと言ったが、翌日、KBOが私に監督を要請したという記事が出た。ある方には『おめでとう』と言われたりもした。そのような状況で拒否するわけにはいかなかったんだ」。

金顧問は、監督の要請を受け入れる代わりに、いくつかの条件を示した。会社(ハンファ)の許諾を受けること、コーチングスタッフはプロ野球監督の中で選任してくれることなどだった。しかし、どの監督もコーチをやろうとしなかった。選手の選抜も容易ではなかった。金顧問は、「国があってこそ、野球もある」という言葉で選手らを励ました。

韓国は大リーガーが勢ぞろいしていた強豪チームを相次いで下して決勝まで進んだ。決勝で日本に惜敗したものの、国民は「感動の3月」を満喫した。しかし、ハンファは序盤から下位グループに含まれ、創設後初めて最下位の恥をかいた。水面下で取りざたされていた監督交替説は現実となった。

「覚悟はしていたんだ。成績があまりにも悪いから、言う言葉がなかった。最後の試合で選手らに頭を下げられた後、『もう終わりだなあ』という実感が沸いてきた」

1991年、サンバンウルの監督としてデビューした金寅植監督は、1995年から斗山(トゥサン、OB)監督として9年を過ごした後、04年、1年を休んで、05年、ハンファ監督に就任した。5年ぶりに迎えた休息だ。

「1週間に2度ずつ針を打ってもらっている。毎日歩きながら運動もしているし。日曜日には家の近くのビアホールで、李鍾道(イ・ジョンド)という野球人と必ず会う。ビール1杯を前に置いて、何時間もおしゃべりできる。脳梗塞で倒れてからは、最近が一番調子いい」

金顧問は通算1000勝にあと20勝だけを残している。いつ達成できるかは分からない。ハンファの顧問を引き受けているが、特別にやることはない。彼はいつごろグラウンドに戻ることができるのだろうか。

「それは私にも分からない。これから起きることは私の意志とは関係がないから」



why@donga.com