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光復のために闘った看護士34人 中国同胞が収集・発掘

光復のために闘った看護士34人 中国同胞が収集・発掘

Posted August. 13, 2009 08:29,   

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永遠に葬られるところだった女性看護士34人の独立運動の活動が、ある中国同胞の努力で公開された。看護士たちの独立運動の活動が、体系的に整理されたのは初めてのことだ。

07年に韓国を訪れ、梨花(イファ)女子大学看護学科博士課程に在学中の中国同胞・金リョファ氏(27)は、2年間収集した看護士34人の独立運動活動資料を整理し、最近出版した。大韓看護協会の支援を受けて整理した資料によると、看護士たちの独立運動は、大きくわけて、△秘密文書の連絡および軍事情報の探索(朴ジャヘ、イム・スミョン、朴ウォンギョン、朴ヘギョン、タク・ミョンスク等)、△地域社会・病院を中心に万歳運動の拡張(金ヒョスン、朴インドク、李ドシン等)、△赤十字運動(金オソン、金テボク、朴オクシン、ユン・ジンス、李ジョンスク、チェ・ケボク等)、△保健教育および啓蒙運動(朴インドク、チョン・ジョンミョン、ハン・シングァン等)に分けられる。

チョン・ジョンミョン氏は、秘密裏に独立運動書類を伝えて、投獄された。17才で結婚したチョン氏は、2年後に夫が死亡すると、息子と暮らしていくためにセブランス病院看護員養成所に入った。血で染まった包帯を毎日洗わなければならず、当時の看護士の仕事は苛酷だという社会的認識のため、貧しい家庭の女性が志願することが多かった。

チョン氏は、1919年に、薬剤室職員を装って勤務していた独立運動家の李ガプソンから、3・1運動関連書類を密かに受け取って伝えようとしたことがばれ、尋問を受けた。このことがきっかけとなって病院を辞め、産婆として働くことになったチョン氏は、独立運動家が検挙されたという知らせを聞くと、監獄に金や服、食べ物などを差し入れた。金がなければ、家にある物を質屋に入れたりもした。チョン氏は、独立運動家の間で「姉であり母のような人」と呼ばれた。

ハン・シングァン氏は、3・1運動と光州(クァンジュ)学生運動に積極的に参加した「行動派」だった。17才の高校生の時、3・1運動が起きると、故郷の晋州(チンジュ)で会う人々に太極旗(テグクキ=韓国の国旗)を密かに配り、「万歳を叫んで」と説得したことで、若くして2ヵ月間、投獄された。ハン氏は、1923年に東大門(トンデムン)婦人病院の看護婦養成所を卒業した後、母子保健産業に飛び込んだ。「看護士たちが、社会的役割を果たさなければならない」という趣旨の下、同年、朝鮮看護婦協会を設立し、妊婦と児童の健康のための講演に専念した。1928年の光州学生運動の時も、ソウルで学生を集めて運動を起こした容疑で、1年の懲役刑を受けた。

丹斎(タンジェ)・申采浩(シン・チェホ)の妻である朴ジヘ氏は、助産婦養成所を卒業した後、1916年から産婦人科で働き始めた。3・1運動で病院ごとに負傷者が列を成すのを見て無力感を感じ、「看友会」を組織して、看護士たちに同盟ストに参加するよう説得した。看護士を中心とした万歳運動も行なった。1919年、これ以上日本人のためだけの病院では働きたくないと思い、北京ヨンギョン大学(現北京大学)に入った朴さんは、翌年、申采浩先生と出会って結婚した後も、独立運動を続けた。

中国同胞の金氏が看護士の独立運動を発掘して整理することになったのは、独立運動家だった曽祖父の影響だった。金氏は、「両親から曽祖父の独立運動の話を聞いて育った。朝鮮族学校に通ったので言葉と文字は分かるが、韓国の歴史を学んだことはない。民族的絆がなかったら途中であきらめただろう」と話した。金氏は、大学院に入学した後、「独立運動に参加した看護士はいないのか」という疑問を持ち、資料収集を始めた。

金氏は、「看護士が主導的に独立運動に参加したという事実を伝えることができてうれしい。これからも文献発掘を通じて、公表されていない事実を詳細に明らかにしたい」と語った。



isityou@donga.com