所在が分からなくなっていた慶運宮(徳寿宮の旧称)の「懿孝殿」が、昌徳宮へ移転されていたことが、現在になってようやく明らかになった。
この懿孝殿の跡地は、現在、徳寿(トクス)初等学校(ソウル中区貞洞)のグラウンドになっているが、最近、民主化運動記念事業会が記念館の設立を進めており、同校児童たちの保護者らが嘆願書を出すなど論議を呼んでいる。
宮殿専門家の李康根(イ・ガングン)慶州(キョンジュ)大学文化財学部教授は1日、「昌徳宮の『新璿源殿(朝鮮時代の歴代王の御真影がまつられた御殿。璿源殿と区分するため‘新’をつけた)』前の懿老殿を調べた結果、この御殿が1921年頃に、今の徳寿初等学校のグラウンドに位置していた懿孝殿を、当時の日本帝国が移転したものであることを確認した」と発表した。
懿孝殿は、純宗(朝鮮王朝の最後の王)の后である純明王后(1904年死去)の位牌をまつる徳寿宮の魂殿である。1920〜1921年ごろ、徳寿宮・璿源殿とともに昌徳宮に移転するという新聞記事が報道されたものの、その後、所在が確認されずにいた。
懿孝殿の在処が今回確認されたことで、元々の跡地である徳寿初等学校へ移転する可能性もあるだけに、懿孝殿の跡地に記念館を建設するのは無理だという指摘が出ている。文化財庁の関係者は、「懿孝殿の跡地は長期計画を立てて保存する必要があるので、建物を建てるのは原則として許容されないはず」と述べた。
これまで昌徳宮の「懿老殿」は建設年代が確認されないまま、王の親類の位牌をまつる祠とされていた。
李教授によると、懿老殿と新璿源殿は、1820年代に制作された昌徳宮と昌慶宮の俯瞰図である「東闕図」と、1907年頃に日本が作ったとされる「東闕図形」には描かれておらず、その代わりに、「大報壇(法事が祭られる祠)」だけが描かれている。
このことから、1907年以降、大報壇を取り壊した跡に新璿源殿と御殿(懿老殿)が立てられたと推定できる。これと1920年〜21年ごろに徳寿宮の璿源殿と懿孝殿が昌徳宮に移転されたという報道を合わせて考えると、この御殿こそが「懿孝殿」だという話だ。
李教授はまた、「璿源殿の御真影を模写する過程を記録した『璿源殿影幀模写登録』(1936年)では、新璿源殿の前にある御殿を『元々懿孝殿だった』という意味で『原懿孝殿』と記されている」と指摘した。
懿孝殿が懿老殿になった理由として李氏は、1928年に純宗と純明王后の位牌を宗廟(朝鮮王朝の歴代王と后の位牌をまつる廟)にまつった後、懿孝殿の表札を降ろした上に、時間が経つにつれ「孝」が「老」に誤読されたのでは、と話している。懿孝殿の表札は現在、国立故宮博物館に所蔵されている。
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