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間違って知られている故・孫基禎とベルリン五輪

間違って知られている故・孫基禎とベルリン五輪

Posted August. 09, 2006 04:30,   

五輪男子マラソンでアジア人が優勝したのはたった2回。1936年ベルリン五輪の故・孫基禎(ソン・キジョン)先生と1992年バルセロナ五輪の黄永祚(ファン・ヨンジョ)がその主人公だ。

56年という歳月の流れがあるものの、二つの大会は多くの因果関係を含んでいる。優勝者が二人とも韓国人で、大会の日付も同じ8月9日。孫先生が授賞台で月桂冠をかぶった(出発時間は午後3時2分)午後6時頃に、バトンタッチするかのように黄永祚がバルセロナ競技場を出発した。参加選手は、ベルリンが56人(27カ国)で、バルセロナはちょうど2倍の112人(73カ国)。韓国選手2人と外国選手1人が後半レースを競ったのも似ている。バルセロナでは29km地点から、黄永祚、金ワンギと森下(日本)が角逐を繰り広げた。ベルリンでは35km地点から、孫基禎、南昇龍(ナム・スンリョン)とハーパー(英国)が3巴戦を繰り広げた。

授賞式の場面も象徴的だ。ベルリンでは太極旗(テグクギ=韓国の国旗)の代わりに日の丸が2回(1、3位)も上がったが、バルセロナでは太極旗の下に日の丸(2位)とドイツ国旗(3位)が上がった。1936年、韓国民族に血の涙をこぼさせた日本帝国とヒトラーのドイツが56年ぶりに、おとなしく頭を下げたわけだ。しかし、間違って知られたり、脹らまされた事実もある。

□1.孫先生は猛暑の中で走ったのではない

1936年8月9日午後3〜6時、ベルリンは攝氏21〜22.3度、湿度20%のさっぱりと乾燥した天気だった。マラソンの最適気温(攝氏10度前後、湿度30%)ではなかったが、だからと言って、一部で言うように30度を超える蒸し暑い天気ではなかった。それに、1〜13kmと30〜42.195km区間は、10万坪のグリューネバルト(「緑の森」という意味)公園を走る森の道。今でも、200〜300年を超える鬱蒼とした木で日差しがよく入らない。ただ、13〜30km地点の直線高速道路(アウトバーン)を走る時は、ちょっと暑かったかも知れない。バルセロナ五輪の時は、攝氏28度で湿度80%の蒸し暑さ。

□2.ベルリン五輪のコースはほとんど平坦だった。

いわゆる「ビルヘルム皇帝の丘」(35km地点)や「ビスマルクの丘」(40km地点)はない。その地点は、標高2mぐらいのちょっと上り坂部分があるだけだ。コースを踏査した黄永祚(36・国民体育振興公団)監督は、「40km地点のペルストラヤ鉄橋下のS字模様の上り坂は、走ってきた弾力で軽く上がれる区間だ。それに、当時、孫先生は2位のハーパーを2分距離まで差を広げた状態だったので、大した問題ではなかったはず」と語った。黄永祚はバルセロナで、標高50mを越えるモンジュイクの丘(40km地点)で森下と差をつけた。

□3.孫先生の優勝記録は当時の世界最高記録ではない

孫先生の優勝記録は2時間29分19秒。100mを平均21.23秒の速度で走ったことになる。歴代五輪史上最高記録であると同時に、2時間30分の壁を初めて破ったのだ。しかし、当時の世界最高記録は、孫先生が1935年11月、日本東京明治神宮大会で立てた2時間26分42秒。同記録は12年後の1947年4月、孫先生の弟子である徐潤福(ソ・ユンボク)がボストン・マラソンに2時間25分39秒で優勝し、更新された。



mars@donga.com