朝鮮王朝がソウルに2つの宮殿を作ったのは、万一の事態に備えるためだった。宮殿が1つだけなら、火事や反乱が起きたさい、王の逃れる所がない。優先順位で上の第1宮殿を「法宮」、第2宮殿を「離宮」と呼んだ。朝鮮初期の法宮は景福宮(キョンボククン)で、離宮は昌徳宮(チャンドククン)だった。豊臣秀吉による文禄・慶長の役で両宮殿が焼失すると、光海君(クァンヘグン)は景福宮は放って昌徳宮だけを再建し、仁旺山(インワンサン)のふもとに、新たに仁慶宮(インギョンクン)と慶徳宮(キョンドククン)を建てた。昌徳宮は法宮としての地位を上げた。
◆その後、宮殿は数回、政治旋風に巻き込まれる。光海君を追い出して即位した仁祖(インジョ)は、光海君が建てた仁慶宮を壊し、その資材を昌徳宮の補修に使った。大院君(テウォングン)は、王室の権威のため、国家財政を枯渇させながらも、景福宮を再建した。日帝が景福宮の中に総督府の建物を建て、光化門(クァンファムン)を他に移したことも、朝鮮王朝の脈を切るためだったという。
◆文化財庁が、光化門の解体と復元を含む「ソウル歴史都市造成計画」を発表した。しかし、光化門を元の位置に移しソウルの城郭を修復する計画は、これまで何回も伝えられた内容で、新しいものではない。北岳山(プクアクサン)開放計画で、肅靖門(スクチョンムン)を開放することも、昨年9月に発表されたものだ。光化門前に広場を造成することは新しいニュースだが、ソウル市とは詳細な協議をしていないという。予算問題で、「正確な金額はまだ確定していない」という文化財庁の回答も、いい加減この上ない。
◆このように不十分な事案を大々的に発表からするため、野党所属のソウル市長の「清渓川(チョンゲチョン)復元」に対抗するための「政治的作品」ではないのかという声が出てくるのだ。段階を経て実施される北岳山の第1段階の開放の日時が地方選挙(5月)の1ヵ月前で、全面開放が大統領選挙を控えた来年10月というのも釈然としない。ソウルの歴史を修復することを咎める人はいないだろう。しかし、まるで選挙日程に合わせたように急いでは、意味深い事業を誤る危険が高い。「政治の空間」ではない景福宮を政権のために動員することはあってはならない。
洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com






