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[オピニオン]モスクワ3国外相会議60周年

[オピニオン]モスクワ3国外相会議60周年

Posted December. 30, 2005 03:21,   

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「1945年12月31日、東大門(トンデムン)運動場で反信託(反託)決起大会が開かれました。ソウル市内の商店はほとんどが店を閉め、大きな人波が作られました。信託統治反対運動は誰かが計画を立てて始まったことではなかったのです。左も右もなく、完全に自然発生的な出来事だったのです。」姜元龍(カン・ウォンリョン)牧師(88)の証言だ。同年12月28日、モスクワに集まった米国、英国、ソ連の3国外相は韓国に対する信託統治(共同管理)を決めた。光復(日本植民地支配からの独立)を喜び、自主独立を待ちわびていた国民は悲嘆に陥った。当然、信託統治反対世論が圧倒的だった。

◆これに先立ち12月27日付の東亜(トンア)日報は、「韓国の独立問題がモスクワ3国外相会議で論議されかねない。ソ連は信託統治を提案した一方、米国は即時独立を主張する」という内容のワシントン発の外電を転載した。同日付の朝鮮(チョソン)日報とソウル新聞にも同じ記事が載った。米国とソ連の方針が、外信報道と違っていたことが、後になって明らかになったが、すでに2ヵ月前から信託統治説が外国メディアの報道が伝わっていたし、それに反対する動きが国内では始まっていたため、マスコミとしては関心を持たざるを得ないニュースだった。

◆2003年12月、KBSの報道番組『メディアフォーカス』は、東亜日報の同記事を問題視した。同記事が信託統治反対運動を激化させ、究極的には南北分断の口実を提供したというのだ。東亜日報だけが同記事を転載したかのように描いたKBSの意図は何だろう。しかも新聞記事が分断の口実になったという主張は理にかなっていない。3国外相会議の信託統治決定が正確に国内に伝えられた直後だけを取っても、韓国内の右翼と左翼は共に、これに反対していたからだ。左翼は1946年1月初め、突然賛託に回った。

◆1945年12月30日、北朝鮮に進駐したソ連軍責任者のロマネンコは、本国の指示を受けて朝鮮共産党に3国外相会議の決定に従うことを指示した。その直後、韓国内の左翼の態度が変わった。このような事情を総合的に考慮すれば、分断は左翼が招いたも同然だ。『メディアフォーカス』の歴史解釈は、信託統治反対運動から大韓民国の伝統性を見出そうをする見解とは対照的だ。こういう有り様だから、公営放送が国のアイデンティティを毀損しているという話が出るのだ。

洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員chansik@donga。com