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[社説]極端を越えて疎通の中心に

Posted March. 31, 2004 23:15,   

東亜(トンア)日報が今日創刊84周年を迎えた。正論直筆の旗の下で目まぐるしく過ぎた歳月よりも、これから開かなければならない未来の重さが、数倍にも重く感じられる。この時代のマスコミと国家が直面する現実が、それだけ困難で複雑多端であるためだ。

認識と準拠の枠が変化したとよく言われる。過去1世紀、韓国の思考と形態を規律してきた主な価値と規範が、変化の急流の中で挑戦を受けている。理念はぼろぼろになり、権威はややもすると厄介なものと考えられる。憲政の根幹である代議制民主主義までも、横行するポピュリズム(大衆人気迎合主義)に押されるような有様だ。理性よりも感性が前に出るような精製されていない言語が、我々の意識を歪曲し麻痺させる。

だからといって、変化に背を向けたり、怖がる必要はない。世界化と情報化は、後戻りできない大勢である。アナログ時代の不合理と不透明、非效率は、もはや存在する場所すらない。変化の速度があまりにも速く、その副作用が抗し難いとしても、これを創造的に乗り越えることも、この時代に生きる我々の課題だろう。

東亜日報は、時代の変化を国家発展の原動力に変える役割に、これからも忠実であろうとする。さらに、公正でバランスの取れた報道と批判を通じて、変化の流れを導き、ふるいにかけ、変化が国民一人ひとりの発展と幸福につながるように最善を尽くすつもりだ。暗鬱だった日本植民地支配下で、東亜日報が3・1精神の具現を約束し、民族主義、民主主義を社是に掲げて出発したことそのものが、まさに変化であり革新であった。

警戒しなければならないのは、変化を装った浅薄で陰険な時流である。変化の外形を帯びるものの、無責任で極端な政治的、社会的扇動主義は受け入れることができない。それは、自由民主主義と市場経済の敵である。自由民主主義と市場経済は分断と戦争、近代化と民主化の険しい旅程の中でも、我々が決してあきらめなかった価値である。いかなる理由であれ、侵されてはならない。国家の発展戦略も個人の生活も、結局その基礎の上で論議され、成り立たなければならない。法治はこれを支える砦である。意見の多様性、表現の自由は尊重されなければならないが、法を無視したり、否定するものでは困る。法治が崩れれば、その社会も崩壊する。

盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権発足以来、韓国社会の二分化は、憂慮のレベルを越えている。世の中を改革と反改革に分け、こちらは良心的進歩、むこうは腐敗した守旧と烙印を押す。二分法的な分裂の中で、法はどちらか一方の利益に奉仕する道具とまで認識される大いに危険な傾向まで生まれている。

真の自由民主主義は、自己と他者の相違を認めることから出発しなければならない。考えと見解が違うという理由だけで敵視しては、「熟議民主主義」が根づくことはできない。保守と進歩の区分は、すでに古くなった。事案によって個別に多様な立場の相違があるだけだ。韓米同盟の重要性は認めながら、イラク派兵に反対する人は、果たして保守か、進歩か。意味のない分類である。ただ、国家利益と共同線という基準があるだけである。

東亜日報は、いかなる極端的なものも排撃し、健全かつ合理的な正論の価値を追求していく。それが、互いの相違を認め、皆が共に暮らす多元化民主社会の第1歩である。極右も極左も国民統合と国の発展の荷物になるだけだ。

このような点で、4・15総選挙は実に重要である。旧態政治を変えて国を変えることができる絶好の機会だからだ。歪曲のない民意の表出を通じて、代議制民主主義の基礎を再び築かなければならない。

大統領弾劾訴追案を可決させた国会に対して、国民の70%はこれを受け入れていない。しかし、その国会の構成員である議員を選んだのは誰か。国民である。国会議員召喚制を取り上げる前に、理性と良心によって、適正な人を選ばなければならない。選んだ後に後悔し、再び政治を嫌悪する悪循環が繰り返されてはいけない。東亜日報は、公正でクリーンな総選挙になるように、監視の目を緩めてはいけない。

マスコミは、究極的に疎通の責務を負う。言葉と考えがつまることなく流れるようにすることで、社会統合に寄与しなければならない。権力に対する批判と牽制も結局は疎通で成り立つ。変化と混沌の時代、東亜日報は疎通の中心にしっかりと立つだろう。是々非々不偏不党の精神で、聞くべき言葉は聞き、言うべき言葉は言うことで、葛藤と分裂を越えて皆が一つになる誇らしい共同体建設をリードしていく。