大韓民国の政治家が意味を間違えて知っている言葉が二つある。「心を空にした」と「白衣従軍」だ。この30年間、大統領病を患ってきた大物の政治家らが自分の既得権は少しも譲歩しないまま、政敵と国民に向けて「心を空にした」という言葉を乱発してきており、党内予備選挙の結果に不服または自ら辞退したり、不正にかかわった政治家がしばらく一線から退く際も「白衣従軍」を口にする。
◆李舜臣(イ・スンシン)将軍は生涯を通じて2度の「白衣従軍」をする。将軍が43歳で造山堡万戸職にいながら辺方の豆満江鹿屯島(トゥマンガン・ノクドゥンド)で勤める頃だった。秋にいきなり女真族が侵入してきて兵士らを殺害して60人余りを拉致すると、将軍は直ちに後を追いかけて救出してきた。しかし、朝廷は将軍の責任を問って杖刑と共に「服を脱がせた」。その年の冬になってようやく将軍は大きな功績を立てて復職することができた。1860年、中国の清とロシアの北京条約締結でロシアの地になった鹿屯島には20世紀初めまでも将軍の戦勝碑閣が残っていたという。
◆1597年、将軍は元均(ウォン・ギュン)の嫉妬と計略によって漢陽(当時の首都ソウル)に連れて行かれ、官職を奪われて「白衣従軍」する。ひどい拷問を受けても将軍は他人を巻き込んだり、誹謗しなかった。王は結局、将軍を処刑する罪名が見つからず、釈放する。ポストも与えられないまま、南海岸の兵営に戻る途中、母親が亡くなったという悲報を聞き、慟哭する。元均が敗戦して戦死し、三道水軍統制使に復職した将軍は、戦艦と兵士らを整備し、鳴梁(ミョンリャン)で大勝利を収める。翌年、将軍は露梁で日本の水軍に最後の一撃を加え、敵を壊滅させて戦死した。
◆このほど崔秉烈(チェ・ビョンニョル)ハンナラ党代表の「白衣從軍」宣言を見ながらそれとなく心配になってきた。白衣從軍とは「戦いでは必ず勝利し、勝利の果実は吾のものとしない」とき初めてその真の意味が完成するものであるからだ。憂うつな気持ちになって世宗路(セジョンノ)交差点に出て「白衣從軍」の元祖と言える李舜臣(イ・スンシン)将軍の銅像を見上げてみた。将軍も時流に便乗した銅像の移転と自身の最も重要な語録が乱発される昨今の政治現実が残念に思えてならない様子だった。
呉明哲(オ・ミョンチョル)oscar@donga.com






