不法な大統領選挙資金をめぐる政界の泥沼試合と巨額の裏取引の中で、私たちがそれでも多少心の慰みを得られるのは、生涯節約して集めた金を惜しげもなく寄付する人たちと地下鉄の線路に転げ落ちた老人を助けるために身を挺して助けながらも何でもないと言って姿を消した30代初めの若者のおかげだ。そんな隣人がいるから、私たちはこんな混沌とした時代にも、「この世の中はやはり生きてみる価値がある」と思いなおし、黙々と仕事場に足を運ぶ。だが、「好事魔多し」ということわざ通り、やはり良いことには魔が差すようだ。
◆先月釜山(プサン)大学に現金305億ウォンを寄付したのに続いて、今月初めに1000億ウォンの私財をさらに投じて教育文化財団を設立することにした釜山の宋金祚(ソン・クムジョ)(株)テヤン会長が、寄付金の後遺症に悩まされているという。「クレジットカードの負債を肩代わりしてほしい」という信用不良者から、「後援会の会長になってほしい」という政治家志望者、「株式投資で大金をもうけて半分に分けよう」という証券会社の職員、各種の慈善・市民団体の援助要請が殺到したのだ。耐えかねた宋会長は、家を出て病院で過ごさなければならないほどだというのだから、その苦痛は察するに余りある。
◆いくらなんでも韓国社会はここまで落ちぶれたのだろうか。仏教では「無住相布施」を強調する。見返りを期待しないで分け与えることが一番だということだ。キリスト教の「右手がすることを左手に知らせずにせよ」という言葉とも相通じる。真心のある寄付者は、そのため自分の身分を明かすことを潔しとしない。だが、莫大な寄付を受ける側では、そんな人たちの尊い意思を世の中に知らしめようとするのが世の常だ。それを責めることはできないが、時には思惑通りにことが運ばないから問題だ。一代で大きな財産を成した実業家が数百億ウォン台の不動産を慈善団体に寄付してマスコミに報道された後、相続権者の息子が大きく反発したために困惑したのが一例である。
◆長い経済不況にも関わらず、国内の寄付金総額はここ数年150〜190%の増加率を見せている。年末年始に募金が集中していた現象も、最近では60%台に緩和された。ペンションのオーナーが少年少女家長のために宿泊券を寄付し、劇場と公演企画業者が貧しい隣人に一定比率の公演観覧席を提供するなど、寄付品目や方法もまた多様化しつつある。だが、裕福な人たちの参加は依然期待に及ばない水準であり、一度も寄付したことがない韓国人も43%にのぼる。寄付文化の拡散と整備に劣らず、寄付者の心身を疲れさせない社会的なコンセンサスと配慮もまた急務だ。寄付した人を苦しめるとは、本当に恥じいるべき社会ではないか。
呉明哲(オ・ミョンチョル)論説委員oscar@donga.com






