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[オピニオン]「四語定」と「五六泥」

Posted March. 16, 2003 22:26,   

不惑と知天命。「論語」の為政篇で孔子が学問修養について説きながら、それぞれ40歳と50歳を指して言った言葉だ。すなわち、「30歳の時に立身して(三十而立)、40歳の時は惑わず(四十而不惑)、50歳の時には天の命を知った(五十而知天命)」と言うことだ。

情報と知識が単純で肉体的労動力が生産の原動力となっていた時代。そんな時代で40年も生きていれば、世の中のことはかなり経験したはずだから些細なことに揺れることは無かったはずだ。だから50年を生きて、天と地の動きを悟ったとしても、誰がそれを間違っていると言えたのだろうか。

◆ところが今は?一言で、四語定と五六泥の時代だ。西遊記の沙悟淨(訳註:韓国語で「四五定」と「沙悟淨」は同じく「サオジョン」と発音する)ではなく、「45歳定年」という意味の四五定で、釜山(ブサン)沖合の五六島(訳註:韓国語で「五六島」と「五六泥」は同じく「オリュクド」と発音する)ではなく、「56歳まで職場にいれば泥棒」という意味の五六島だ。

農耕社会には頼もしい柱だった40代と50代が、外為危機を経験し、すっかり冷や飯食いに転落してしまったわけだ。新政権の大統領秘書陣の人選をみて、そして最近は検察の世代交代をみて、苛立ちを感じる人は一人二人ではない。

◆「(人が中年になれば)この世の中には神も悪魔もいなく、ただ人間だけが存在するということが分かるようになる」。「中年以後」という本に出てくる40代と50代に対する賛辞だ。若い熱情が去った後でこそ、事物と存在をありのまま見られるようになるという話だ。しかしこのような賛辞が情報化時代にもそのまま当てはまるかどうかは疑問だ。

386世代(年齢30代、80年代大学入学、60年代生まれ)に経綸ある人がいないわけがなく、70代の熱血男もやはり存在しうる。だから、人を能力でなく、歳で区分することこそ、稚拙なことに違いない。歳は数字に過ぎないと言えるからだ。

◆しかし、最近の検察の人事を見ると、何か息苦しさを感じざるを得ない。改革の理由が望ましくないのでもなく、政界に進出しようとして媚を売った政治検事をそのまま置こうということでもない。しかし政治検事でもないのに、能力も所信もあるのに、単なる歳月のせいで退かせたようなことはなかったのか。さらに息苦しさを感じるのは、そうでなくても四五定、五六泥云々と言われながら、苦しまされる我々40代と50代が、今回の検察の人事をみながら、もっと気を落としたのではないかということだ。ちょっと無茶かも知れないが、彼らは「中年以後」に備えるため、ある映画のタイトルみたいに、「Shall we ダンス?(Shall we dance)」と言う勇気も余裕も無い人たちだからだ。

金ギホン客員論説委員(釜山大教授)



gkim@pusan.ac.kr