馬海泳(マ・へヨン)のさよならホームランで、三星(サムスン)が球団創立21年目にして初めての韓国シリーズ優勝杯を手にした10日、胴上げをして優勝の喜びに沸き上がっている選手団とは裏腹に、大邱(テグ)球場2階にある三星球団関係者室で人知れず目頭を濡らす人がいた。
毎年、この時期になると決まって思い出す人。その人のことを、ある人は「悲運の投手」と言い、またある人は、韓国シリーズで一度も優勝を果たせなかった三星ジンクスの震源地とも言った。
三星の2軍投手コーチの李善煕(イ・ソンヒ、47)。彼はこの20年間、忍苦の歳月を送ってきた。だからこそ、ユニフォームではなく私服姿で、三星の韓国シリーズ初優勝を見届けた彼にとって、喜びもひとしおだったはず。11日、慶山(キョンサン)球場で出会った彼は、白髪が一際目立っていた。
「優勝を淡々とした気持ちで受け止めようと努力しました。ところが、なかなかそうはいかないものですね。この21年間の歳月の重みが、一気に押し寄せて来ましてね」
国内にプロ野球がスタートした82年当時、左腕投手李善煕の名声は、天をつくような勢いだった。75年、ソウルアジア選手権大会を手始めに、77年、ニカラグァのコンフェデレーションズ杯、80年の東京世界選手権大会に至るまで、韓国は彼がいたからこそ、宿敵の日本を相手に連勝を続けることができた。
とりわけ、77年のコンフェデレーションズ杯では、MVPと多勝、リリーフ投手王を総なめにした彼の活躍に支えられ、韓国代表チームの新人の指令塔だった三星の金應龍(キム・ウンリョン)監督が、初優勝の感激を味わうことができた。その年、国内の野球選手としては空前絶後の、大韓民国体育賞まで受賞した李善煕こそ、当代最高の投手だった。
プロ入団の際も李善煕は、米国帰りのOBチームの朴哲淳(パク・チョルスン)を除けば、当時としては最高待遇の契約金1500万ウォン、年俸1800万ウォンでスカウトされた。
ところが、好事魔多しという言葉どおり、82年2月、三星の球団創立の前日、李善煕の父が脳腫瘍で亡くなり、他の選手とは別に、白いカーネーションを胸につけて球団創立式典に臨まなければならなかった。
不運の予告だったのだろうか。1ヵ月後の3月27日、李善煕は歴史的なプロ野球開幕戦で10回裏、MBCの李ジョンドに、延長さよなら満塁ホームランの珍記録を納め、その年の韓国シリーズでは最終6回戦の9回表、OBの金裕東(キム・ユドン)にまたもや満塁ホームランを打たれ、陰の中に消えていった。その年のシーズンで李善煕は、15勝7敗1セーブ、平均自責2.91という超特級の成績を上げたものの、それを評価する者は誰もいなかった。彼の不運はこうして始まった。彼は、結局85年、MBCの李ヘチャンとのトレードで故郷の大邱を後にした。
「皆さんが私のことを気の毒だとおっしゃいます。でも、投手がホームランの1本や2本くらい打たれるのは、兵家の常でしてね。ただ、私の場合は、あまりにも劇的なホームランを立て続けに打たれたのが問題でした。それでも、私がいたからこそ、国内のプロ野球の発展を10年は早めたと思います」
韓国シリーズの6回戦で、三星に初優勝をもたらした9回裏の李承鎏(イ・スンヨプ)、馬海泳の2本のホームランで、彼はようやく20年越しのしがらみから自由になった。悲運の投手というレッテルも、ジンクスの震源地という憎まれ口も、はるか遠くへ吹き飛ばしてしまった。いま、彼の顔に笑顔が戻ってきた。
張桓壽 zangpabo@donga.com






