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「世界の意標をついた」 ヒョンヒが世界フェンシングの王者に

「世界の意標をついた」 ヒョンヒが世界フェンシングの王者に

Posted August. 19, 2002 22:15,   

信じられない優勝だった。

同じフェンシング選手で活躍している夫でさえ、朝の眠りを起こした妻の「私、優勝したの」という電話に「冗談言うなよ」と反応したほどだった。

当初、8強入りさえできれば大成功と考えていたヒョンヒは、予選を経て本大会の64強戦で世界ランキング37位のシルビア・リナルディ(伊)を15—11で倒して快調のスタートを切った。世界7位のイルジコ・ミンチャ(ハンガリー)と世界50位の中国選手を相次いで1点差で下して準々決勝に進出した。

1次目標を達成した彼女の前に最大の強敵が立ちはだかった。世界1位のローラ・プレセル(仏)と4強行きを争うことになったのだ。

プレセルとは誰か。96年アトランタ五輪で2冠王に輝き、世界大会で3度も優勝したこの道の最高選手だ。経歴だけで見れば、雲泥の差だった。

しかし、ヒョンヒはスピードと持ち味の奇襲攻撃で着実に試合を展開し、15—11で勝利した。「大魚」を釣ったのだ。世界1位を倒したのだから、誰を恐れようか。準決勝戦で世界3位のブリタ・ハイデマン(独)を15—14で制しては、とうとう最後の王者に躍り出た。

1m68のヒョンヒは、国際舞台でエペ選手にしては短身に入る。1m80台のたくましい体格をした西欧の強豪たちに比べると頭一つは足りない。授賞式典でほかの入賞者たちとポーズを取る彼女は、大姉たちと並んでいるように見えた。しかもエペ剣は、ほかの種目より重く、扱い難いと言われている。

しかし、ヒョンヒは持ち前の瞬発力と主武器の「カルト」、「コントル・シックス」を生かして、このようなハンディキャップを克服していった。ヒョンヒの世界制覇は、奇跡と評するに値する。

1935年、国内に導入されたペンシングは、非人気種目の礼遇に甘んじながら、影に隠れていた。60年余りの歴史のなかで登録選手は1100人余り。実業チームも3つしかなく、しかも女性は市庁、郡庁、道庁チームを除いた純粋な意味での実業チームは皆無だ。

金ヨンホが1998年のシドニー五輪で、やはり韓国選手では初の金メダルを獲得しペンシングが「一時的な」人気を集めたが、間もなく一般の関心から遠ざかった。そのうえ、大韓ペンシング協会が2001年2月から1年近く会長が空席のままの状態が続き、状況はさらに悪化した。

当初、今大会にも8000万ウォンの経費問題で出場を断念する考えだったが、今年5月に(ユ・ヨンギョム)会長が新しく就任してから、曲折の末、遠征には出ることができた。一方、ヒョンヒとともに出場した金ヒジョン(忠南鶏龍出張所)は32強で、金ミジョン(光州西区庁)は64強で脱落しており、李グムナム(光州西区庁)は本大会進出に失敗した。



金鍾錫 kjs0123@donga.com