先週、洪尚秀(ホン・サンス)監督の新作「生活の発見」を観る機会があった。劇場公開を前に開かれた2回目の試写会は、好奇心に満ちた人々で埋まっていた。数年前、彼の第1作「豚が井戸に落ちた日」の試写会は、わずか数人の観客しかおらず、寂しかった記憶がある。この間、洪監督の名が広く知られ、彼の映画に熱狂するマニアが増えたのをこの目で確認できたような思いがして、感慨もひとしおだった。
期待どおり彼の新作は、芸術としての映画を再発見するきっかけを作ってくれた。新しく映画を作るということは、映画というものを再発見させるものでなければならない。そうでなければ、それは古いことの繰返しに過ぎないはずだ。
興行目当ての、大規模な商業映画が幅を利かせている今日の韓国映画界において、洪尚秀という人物は、そのようなことにとらわれず、強情なまでに作家の道を通して自らの道を行く、数少ない監督の一人である。まるで小説家のように、生の微細な息づかいを鋭く観察して、独自のスタイルでそれを映像の中に盛り込むといった、映画的探求を持続的に行なっている。
多少風変わりな「生活の発見」というタイトルも、今回の映画にふさわしい題名だ。同時に、この映画は「映画の発見」でもあると、私は考えている。慣習的に作っているように見えても、映画の作り方に対する洪監督なりの、新たな省察が込められていると思われるからだ。
一人の俳優が、偶然出かけた旅先で二人の女に出会い、情事を繰り広げる過程を通じて洪監督は、独特のユーモラスな視線で、彼らの取るに足らない行為をのぞいている。ところが、よく見ると、彼はそれなりに意味があって、時にはあきれ、時には奇怪なまでの言葉と行為を、淡々を描き出している。前作に比べ、劇的な密度が劣っているようではあるが、生を鑑賞する適度な距離とともに、作家としての心理的余裕と言おうか、円熟さが感じ取れる。
しかし、いくら良い作品といえども、興行とは距離がある。試写会の後、食事会の席で誰かが「試写会のときだけ満員で、いざ劇場封切りとなると、おもしろくないだろうよ」と、冗談を言っていた。意味ありげな冗談だ。
洪監督のケースをみながら、映画においても選択という問題がいかに重要であるか、改めて考えさせられる。
言うなれば「商業的成功か、芸術的成就か」のどちらかを、明快に選択しなければならないということだ。
ほかの芸術ジャンルと違って映画は、先ず産業的な基盤の上に存在するものであるために、芸術とはいえ、産業と芸術の混成的な性格を離れては考えられない。多くの資本と人力が投入されることから、興行というものがいかなる映画の場合においても、必須の考慮事項となっている。
この点、劇場に上げられるすべての映画は商業映画である、という話は正解だ。洪監督の場合も同様である。いわゆる「芸術映画」「商業映画」の区別というのも、程度の差の問題であって、全くの質的な区分ではないと言える。にもかかわらず、いわゆる「芸術映画」または「作家(主義)映画」の概念は、依然として有効である。
制作者や監督の立場としては、最初からはっきりとした方向と目標を定めなければならない。犠牲にすべきものは犠牲にする勇気が必要であるということだ。この選択をはっきりしないまま、2つを一度に狙うところから映画はどっちつかずとなってしまい、結局興行にも失敗するケースが多いのではないかと思われる。
外国でも、状況こそ似ているものの、とりわけ韓国において「芸術映画」または「作家映画」を作るということは、あまりにも至難の技だ。彼は、才能もあるが幸運にも恵まれている監督だ。芳しくない興行成績にもかかわらず、彼が作りたい映画に続投できたのは、利潤より名誉の方を選び、投資してくれた制作者がいたからに他ならない。もちろん、国内の評論家たちの声援とカンヌ映画祭をはじめ、国際映画祭での評判が絶対的な支えとなったはずだ。
韓国には、洪監督のような人物がもっとたくさん輩出されるべきだ。そうして、さらに多くの「芸術映画」「作家映画」が作られるべきだ。すべての映画がそのように制作されるべきだということではない。ただ、洪尚秀のような「作家」が、しっかりと地に足をつけて作業できる余地が、あまりにも少なかったために言ったまでだ。
映画の質を高めようと犠牲を恐れない制作者がもっとたくさんいることも必要だが、同時に観客の趣向がより細分化しまた個別化して、一時的な流行に流されず、各自それぞれの趣向に合った作品を選んで鑑賞する境地に至らなければならない。韓国の映画文化は、まだ分化されない初期にとどまっている。すべての可能性が開かれているのだ。
崔旻(チェ・ミン)韓国芸術総合学校教授(映像美学)






