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[オピニオン]いまだに首領制社会か

Posted March. 21, 2002 09:50,   

日々の忙しさに追われながらも、近い過去を振り返って生活環境をよくよく見れば、その変化の速度に誰もが驚きを禁じえないはずだ。西洋の科学技術文明が、過去250年あまりにわたって作り出した変化は、それ以前の人類の歴史が経験した変化とは比べものにならないほど大きい。このような変化の流れに韓国が本格的に加わってから、まだ半世紀にも満たないものの、最近の私たちの生活環境の変化はより加速度を増し、日々の経験がただ驚きに満ち、困惑を覚えずにはいられない。

そこそこの中産階級のアパートの風呂は、昔の王が見ればうらやましがるであろうし、一般大衆が乗っている乗用車を見れば、過去の貴族が自分の生活をむなしく感じることだろう。

しかし、このような物質的環境の変化にもかかわらず、一度築き上げられた社会的規制や意識は、めったに変わることはない。その中で生じる矛盾と葛藤は、かなりの重みをもって私たちの日常生活を圧迫している。物質的条件の充足だけで、自信をもって幸せだと言える人がどれほどいるかは疑問であるが、ある調査によると、大半の青少年が韓国社会を堕落した社会であるとみている、という報道は尋常ではない。このような事実は、大きくは文明批評の視点から貧困と戦争問題にまで結びつく分析へとつながる。しかし、それよりも小さな視点で、目の前の問題と結びつけて考えるほうが常識的であろう。

まず、先日与党の大統領選候補の予備選挙に出馬した議員が、うしろめたい政治資金の授受の事実を公言し、良心宣言をしたのだが、苦しい立場に立たされ、途中下車に至った。動機がどこにあれ、それ自体は衝撃的で新鮮なものであった。そうすることで韓国政治の暗い一面を改革しようとしたのだ。にもかかわらず、彼がいわゆるイジメにあうかのように政界からそっぽを向かれたことは、口を開けば民主主義を唱える政界で、いまだに前近代的な政治慣習が残っていることを如実に物語るものであるとしか言えない。

先進国では、株価の判断基準の一つとしてその企業の経営者の能力を問うのに対し、韓国では、企業が政権とどの程度の距離を保っているかということが、最も重要な基準になる。一部マスコミも、大統領の出身地域によって重要な人事が行われるのが慣例であった。

このような例が示唆することは、韓国社会を支配している主導的ルールは、いまだに前近代的かつ首領制的な支配慣習だということだ。

これは一言で言って、科学技術社会の進行に必要な合理性と計算性に正面から反するものだ。首領制の権力は、原始社会でよく見られるような互恵的なプレゼント交換であって、経済的要求を満たすものではなく、権力の作用によって物質的需要を分配するものだ。歴史的に言って、最も長い伝統をもつ体制だ。

韓国ではこれは、開発時代の新重商主義的体制において、現代にその姿を登場させた。この体制は、物量的な意味において、経済発展を成し遂げればそれでいったん正当化される。さもなければ、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が今日直面しているように、体制の危機に追い込まれるのである。韓国でそのような体制が問題を誘発するのは、内的には、初期の開発が終わって本格的に分化した経済構造において、新たな技術人材が投入されてからであり、外的には、需要と供給が価格を媒介に決定される市場経済に本格的に進入してからだ。こうして首領制的伝統が合理性や計算性と衝突を起こし、社会全般にわたってまさにルールなき社会と言える現象が起こっているのだ。

このような伝統が拡大、再生産されたのが、過去10年間の実のない歳月であったと見るなら、今後もその漆黒からはたやすく抜け出せそうにない。すでに経済においても、株価の理由のない上昇や個人融資の増幅など、合理的に理解しがたいバブル現象が感知されており、権力慣習に伴なう意識内容が消えずに残っている。

そのうえ、いまだに広義の合理的基本条件が備わっていない状況の中で見舞われている経済的難関を突破するために、一時は南北関係の改善に期待をかけたものの、今ではワールドカップにしがみついているのが現状だ。この行事を成功裡に行なったとしても、古い根の上に奇跡の実がなるとは期待しがたい。これ以上に盛大であったオリンピックを開催しても、別段の変化をもたらすことができなかった理由を、じっくり考えてみることだ。

盧在鳳(ノ・ジェボン)元首相