大統領選挙に向けて、候補者たちの動きがいよいよ忙しくなろうとしているこの頃、専ら政治一筋に生きようとする人に向かって「リーダーシップが足りないようだ」と言えば、おそらく言われた人は皆、非常に気を悪くするだろう。支持者の確保に忙しい大統領選挙候補者に言わせても、誰もが「これほど大勢の支持者が集まるというのに、リーダーシップが足りないとはとんでもない話だ」として、またもや怒り出すに違いない。自分こそ、国を正しい方向に率いるリーダーシップを備えた指導者だと、誰もが自認する始末なのだから、それもそのはずだ。ここで、政治的リーダーシップの要が何で、要件が何であるかを論じようというのではない。しかし、一つだけ確かなことは、到る所から人々を寄せ集めては一列に並ばせて、自分に従えといった、がき大将的なリーダーシップではいけないということだ。リーダーシップということばが一見、格好よくてもっともらしく聞こえるかもしれないが、その内側には、随所にいかに多くの落とし穴が潜んでいるのかを知るべきだ。今の韓国社会が対処しきれないくらい、次々と明るみに出ては広がる一方の各種権力型不祥事も、この事と何らかのかかわりを持っているはずであるからだ。
不正疑惑の実態が姿を現し、金大中(キム・デジュン)政権下の大統領府、国家情報院(国情院)、検察、警察の主役が一人二人と退場し、大統領のリーダーシップは大きく損なわれた。金大統領は、年頭記者会見で、上記主役らの不正疑惑関連説に大きな衝撃を受けたとして、国民に対して謝罪の意を表明した。大統領として、衝撃とともに憤りを覚えたに違いないが、相次ぐ権力型不祥事にうんざりしている市民の立場から見ると、話は違ってくる。大統領でさえも、国民全体が怒りを感じる対象から決して自由ではいられない、ということだ。大統領といえども、部下たちが個人的に犯すことを一々監督したりチェックすることはできない、と言われるかもしれないが、そうするとリーダーシップはなぜ必要なのだろうか。
ある政派の指導者が大統領に至るまで、リーダーシップをつちかっていく過程には、個人的な権威のほかにも、追従勢力の献身的な貢献も無視できない。さらに、大統領になってからの国政運営におけるリーダーシップは、多様な社会的利益集団をまとめていくためにも、側近や中心勢力による助けが欠かせない。その意味で、大統領のリーダーシップは、片方では側近や中心勢力が築き上げていくのである、と主張する政治学者も多い。この過程で、側近やら家臣やらの集団が形作られたのが、韓国における政治の現状である。側近や中心勢力の出身地が地域的に偏っている金大統領としては、こうした現象が一際目立った。
権力を維持するためには、大統領も中心勢力と距離をおくわけには行かず、一体感を持たせてこれらを率いて行った方が、政権の安全運行のために有利であることも現実に違いない。それに、権力というものの常として、「またがる」ことが好きで「互いにつながる」ことを好む属性を持つのも、リーダーシップの維持と決して関係ないとは言えないだろう。ところが、正にここに権力型不祥事の落とし穴があるのだ。
権力を勝ち取ったものの、少数政権と地域政権という負担を抱えてスタートした現政権の最大の課題は、効率的なリーダーシップの確保である。そして、何よりも大統領周辺の中心勢力の結束である。核心政治は閉鎖的かつ密室化する過程の中で、政治的同志はいつの間にか「わが家族」となっていく。このような雰囲気の中で、リーダーシップの温情主義が根付き始めたのではなかろうか。少なくとも、不正疑惑とのかかわりを疑われている側近は、権力内部の温情的な雰囲気を自らに有利な方向で解釈したに違いない。「大統領のために働いているのだからこのくらいは」と思ったはずだ。権力を運用するリーダーシップの、もう一つの属性が「模糊性」である。あえて何事も一々はっきり区分けることで、必要以上に反対勢力を触発する必要はないとする、いわゆる「あたり障りのない」やり方が良いという論理である。こうしたリーダーシップの模糊性が、温情的雰囲気と一つになった時、不祥事誘発のがい然性は非常に強くなる。権力型不祥事が芽生えるのもこの時である。
後日、不祥事関連説で取りざたになると知っていれば、金大統領は当然彼らを大統領首席秘書官の席に座らせたりはしなかったはずだ。とすれば、彼らを中心勢力圏内に呼び寄せた、さらに核心的な位置にある人は誰だろうか。権力の基盤は、国家運営に必要なすべての資源の独寡占にあり、中でも核心的と言えるのが情報掌握権である。では、大統領府、国情院、検察などの核心勢力を築く過程で人をふるいにかける強力な情報権は、昼寝でもしていたというのであろうか。とりわけ、大統領府における「大統領の側近」たちの不正疑惑が一度や二度で終わらなかったという事実は、人選システムに重大な障害が発生したことの証しではなかろうか。それとも、システムを圧倒する核心実力者らによる、推せんを装った影響力のためだったのであろうか。ところで、彼らは今どこで身を潜めているのだろうか。
政治の世界において、リーダーシップというのは、一つの大きな「演出」にほかならない。現政権は、これに熱中しすぎているし「準備が整った大統領」とアピールしたものの、そうでもなかった。リーダーシップの発揮を急いだあまり、とりわけ人事政策において「植え替え」を繰返したものの、その結果は、一回の処方では国政は治ゆできないということだった。今我々は、高い代価を払ってそれを学んでいるのだ。政治指導者がいち早く気づかなかったために、未だ権力型不祥事に巻込まれているのである。
崔圭徹(チェ・ギュチョル)論説室長
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