スージー・キムの殺人事件がヤミに埋もれてから14年経った今、その真相が明らかになった。検察がついに、1987年当時、国家安全企画部(安企部、国家情報院の前身)が殺人事件であることを知りながらも、対共(国家保安法違反)事件として隠ぺいした事実を探り出した。その間、スージー・キムの母親は、スパイの家族という濡れ衣を着せられたまま亡くなり、姉や兄も不幸な死を遂げた妹の恨みを訴えながらこの世を去っていった。そして、検察が殺人容疑者として、キムと同棲していた尹泰植(ユン・テシック)氏を身柄拘束した今も、「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員、スージー・キム」の汚名はまだ公式には晴らされていない状態だ。
国家と法、そして道徳と人権が何なのかを問い返す事件だ。捜査の結論どおりだとすれば、これは国家保安法という名の下で、政権を維持するために犯された「国家暴力」だった。殺気立った権威主義の政権時代、権力集団の愚ろうによって惨めにも潰されていった個人の人権と一家族の不幸をどうすれば補償できるだろうか。にもかかわらず、その事件隠ぺいの主役である元安企部長の張世東(チャン・セドン)を起訴さえすることができなかった。犯人逃避罪などの容疑について、公訴時効が成立しているためだ。
安企部は87年当時、尹氏が自ら進んで北朝鮮入りを考えていることに気づいた。それでも、北朝鮮大使館に断られた尹氏が「北朝鮮へのら致を避けるために逃げた」という、うそを公式化して記者会見まで行った。 尹氏が殺害したスージー・キムは女スパイに仕立てられた。半月ほど経って、キムの遺体が発見された時点で事件の全貌を明らかにし、尹氏を罰するべきだった。だが、第5共和国末期に野党の改憲攻勢に押され、パク・ジョンチョル君の拷問致死事件で窮地に追い込まれた中、安企部は情けないながらも事件隠ぺいの道を選んだ。外務部に圧力をかけて、事件隠ぺいの「共犯」に仕立てたのも安企部だった。
87年に間違ってはめられた最初のボタンによって、昨年警察の内部監査の中止を主導した金承一(キム・スンイル)元国家情報院対共捜査局長と李茂永(イ・ムヨン)元警察庁長が逮捕された。スージー・キムが草葉の陰で涙している間、 尹氏は詐欺罪で服役したあと、ベンチャー企業の企業家として人生を楽しんでいた。この希代の国家暴力事件を初めからきちんと究明できなかったマスコミとして、その責任を痛感している。二度とこのような前てつを踏まないよう肝に銘ずるきっかけとしたい。
社会の原則と常識を守るのが道徳であり、法が最小限の道徳だと人は言う。法治国家のあり方を考えさせられる今回の事件を通じて、国家暴力による原罪への恨みはもうないのかと、もう一度周囲を見回さなければならない。そうしてこそ、スージー・キムの魂を慰め、その家族の悲惨な犠牲と苦痛をともに分かち合えるすべだろう。






