Go to contents

[東亜広場]政治家たちだけの原則

Posted January. 16, 2001 12:42,   

よく使っている言葉だけを見るとキム・デジュン(金大中)大統領と野党・ハンナラ党のイ・フェチャン(李會昌)総裁は似ている。政治圏の気流が完全に冷え込んでいる最近は特にそうだ。両頭は前もって約束でもしたように‘原則’を主張している。

キム大統領は、年頭の記者会見で「野党とよき関係を維持したいが、そのためにはまず原則が必要だ。民主主義と法治がその原則である」と述べた。イ総裁もやはり各新聞とのインタビューで、「目標を実現するためには原則を貫徹すべきだ。原則に基づいて対処する」と強調した。

この欄を通じて私が話したい事は、実はこれだけである。二人の‘原則信奉者’が対立し、年初から国民を不安がらせている。一体、その原則が何ゆえに、ここまで国民を不安がらせているのかという不満も多い。

考えてみれば、二人の主張する原則は相違しない。民主主義、法治、正義、和合、共生など皆のためになる事を実現しようと言うことだ。目標は一致している。それにいたるまでの過程もそれほど違うようには見えない。にもかかわらず、二人は全力で戦っている。

事態がこうなのだから、普通の人ならこんがらがってしまう。「二人の言っている本当の原則とは何だろう。言葉通り、原則に基づいてやればいいのに・・・」だが、これはあくまでも一般人の考え方である。知っている人はもうみな知っている。国民はどうなってもかまわず、相手を押し倒し、思いのまま政治をしたいと言うのが、彼らの原則という事を。

一連の事態をよく検討するとすぐ分かるはずだ。まず、大統領の方から見てみよう。類のない議員貸出しで国民の非難が高まっている中、第2次の議員貸出しを敢行し、自由民主連合(自民聯)を交渉団体にした。そうしながらも「政治が安定してこそ経済が回復し、自由民主連合と協力してこそ政治が安定する」と主張している。その一方では「何よりも世論を最も怖れる政府となる」とも言っている。院内多数党であるハンナラ党の妨害作戦で、政治が不安だと思っている国民としては開いた口が塞がらないような主張である。

世論を怖れない政治、国民が構成した国会を勝手に変えてしまう政治を民主的だとは言えない。法の精神からかけ離れているので法治とも言えない。‘民主主義と法治が原則’という主張を最初からしていなければまだ理解できるかも知れない。だが、論理的に成立しない話を大統領側はしているのだ。それなのにも国民の信頼の上で、国政を導くというのだから、「民心への無知も甚だしすぎる」と言う批判が出るのだ。

イ総裁もそうだ。旧国家安全企画部(現国家情報院)の予算の旧与党への流入事件は、正義が地に落ちたような事件である。野党総裁が捜査中止を要求するからといって中止できるような事ではない。国民の税金で助成された国家予算を、特定政党の選挙資金として使った事件を捜査しているのに、野党は正義云々としてその中止を要求している。違法に不正な資金をもって、勝手に使った人を召喚し捜査しようと言うのに、それさえも妨害を働いている。

ハンナラ党は、問題の資金が旧安全企画部の予算ではなく、政治資金であれば捜査に応じないと主張している。話にならない。政治資金であれば、国家予算に隠匿しておいて、マネーロンダリングの後、特定の政党が選挙金として使ってもよいという主張なんだろうか。もしそういう事でなければ、どうして捜査すらできないようにし、関連者を保護するための‘防弾国会’を何のはばかりもなく開けるのだろうか。それでも‘法に基づいて’、‘原則通り’という言葉を口にしているのだから、国民は苦笑してしまう。

原則とはいかなる行動や理論において、一貫して守らなければならない基本的規則と法則である。キム大統領やイ総裁の最近の発言や行動からすると、原則と言う単語の辞典的意味も理解していないのではないかという気すらする。何よりも政治家が守るべき最高の原則は国家と国民全体の利益と安定の追求にあるという事を、彼らは忘れている。

国民の共感できる原則の代わり、政治家たちの勝手な原則を強要する国において、果たして未来があると言えようか。ないはずだ。