
自殺と関連した各種のインターネットサイトが増えつつあるかと思いきや、やがて`嘱託自殺'事件へとつながった。自殺はもちろん、善悪のモノサシで評価すべきことではあるまい。全世界の死亡原因の中で10位内に属する自殺は、精神科の領域でも差し迫った問題の一つであり、先進諸国では既に重要な社会的課題として浮上している。
ところが自殺は個人の精神的な問題であると同時に社会文化的な現象でもある。原因は様々であるが、多くの学者は社会心理的な側面でこれを説明する。つまり、自殺の原因が社会にあり、特に個人の感じる社会集団との断絶感から起こる社会心理的な孤立感が大きく働くとのことだ。
1960年代の産業化以降、韓国で自殺率が高まりつつあることも、こうした社会的な原因、つまり、産業化に伴う著しい現代文明の発達が原因になったと言える。人間関係の機械化、分業化、事務化が人間性の喪失をもたらす。また、偏った競争主義的・黄金万能的な考え方が社会全域に広く拡散するにつれて、これに適応できない人が自分を人生の敗北者として認識することが自殺へとつながるのである。
もちろん、自殺は極めてプライバシーに関わる側面も少なくない。精神健康に問題があり、うつ病などのあらゆる精神的な病気のために自殺を選ぶ場合も多い。誰であれ厳しい立場に立たされると、ある程度の自殺への衝動を感じ得る。問題は、このような自殺への衝動を適切に調節し、さらに生産的な方向に導く能力である。
インターネットの自殺サイトはこの点に問題がある。まず、普段から自殺に関して思いを巡らしている者同志が出会う事によって、お互いの問題が解決される方向へと助け合うべきなのだが、それよりかは自殺を当たり前であるかのように受け入れたり、ひいては美化することもあり得るとのことだ。特に感受性の強い青少年にはより深刻な問題だと言わざるを得ない。
たいてい自殺を思いめぐらしている人は、考え方が否定的かつ主観的である。したがって客観的な知識を受け入れられる能力に欠けている。与えられた内容も自分勝手に解釈しがちだ。自殺が美化されることもあり得る。自殺への思いが一時的だったとしても、自殺サイトに絶えず接続することで、いつの間にか知らずのうちに自らの行動をその方向へと導く形になってしまう恐れがある。
ネチズンは流行りのように人気のある言葉を検索しがちな上、これに日本式の商業主義が介入することで、問題は一層深刻になった。自殺率の高い国の一つである日本では、10数年前、`自殺の仕方'という本が発刊され人気を集めた上、数年前からは自殺サイトが雨後の筍のように増えつつある。
インターネットの中毒者は一般的に現実と仮想現実とをわきまえる事に欠ける傾向がある。インターネットを通じて自殺に馴れてきた人は実際に自殺を試みる危険性が高まっているのだ。
今回の事件をきっかけにして自殺をあおる社会的・個人的な病理現象への国民的なコンセンサスと共に、これを予防するための角界の関心と支援が至急だ。
今こそ、自殺を衝動し得る自殺サイトは早急に閉鎖し、これに対する反省と論議を始めるべき時だ。






