個人であっても集団であっても、自分の過ちを認め反省するのは勇気のいることだ。しかしそれは新しい未来への道でもある。
先日、韓国天主教(ローマカトリック教)が外来宗教としてこの地に入ってきてから、200年間犯し続けてきた過ちを、皆の前で懺悔する文書を出したことは、このような点で意味のあることだ。3日懺悔の言葉と共に公式的に発表されたこの文書には、日帝統治下で民族独立の先頭に立ってきた信者を制裁したなどといった7つの反省項目が含まれている。
どの集団よりも保守的な宗教が、公式的な場所で自らの過ちを告白し、許しを請うという点は画期的なことだと見れよう。教会が堅持してきた‘間違いのない’教理を裏返したという点を評価したい。
韓国のカトリックはこれによって、過去史の問題に対する荷を下ろし、より発展することのできるきっかけを作った。カトリック側の説明通り、自分を浄化し、新しくすることにより、新しい世紀を迎えることができるようになったのだ。
今回の天主教の懺悔はまた、宗教が日増しに世俗化しているという指摘の中で、宗教が内部的にも説得力を得るため努力しているという姿を見せてくれた。これはカトリック教だけではなく、他の宗教にも肯定的な影響を与えると思われる。今、この地には宗教の自省と、自省を求める声が高まっている。限りなく悔い改め、懺悔しながら、正義と平和が川のように溢れる社会を作ること、それこそこの慌ただしい時代が宗教に与えた課題ではないか。
もちろん、今回の懺悔について、徹底した具体性が足りないという指摘もある。思想があるが未来に対するビジョンの提示が足りないという点は残念さを拭えない。また、今年の3月に法王パウロ2世が全世界に許しを請うという姿を見せたが、今回の懺悔はその延長線上の行為に過ぎず、法王の懺悔について行くだけの消極的なものだという評価もある。
しかしこのような指摘によって懺悔の根本的な趣旨が曖昧になってはならない。今後、カトリック教がこれに続く行動を見せ続け、足りない点を埋めていってくれることを期待したい。
カトリック教の懺悔は、過ちを犯すことは悪いが、その過ちを認め、許しを請う姿は美しいという事実を我々に教えている。
こうした側面から、反省と懺悔を忘れて生きてきた韓国社会をもう一度振り返ってみたい。韓国社会は過去を余りにも簡単に忘れ、間違いに対して寛大過ぎるのではないか?
カトリック教の懺悔が社会指導層をはじめ、この地のすべての個人と集団に、もう一度自分を省みるきっかけとなってもらいたい。過去の過ちに対し、徹底した反省と懺悔なくして改革は有り得ない。






