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[オピニオン]義人李秀賢

Posted January. 27, 2004 23:35,   

「両国の間の高い壁のため、多くの犠牲を強いられたましたが、2001年、数千万人の日本人は、一人の韓国人の貴い犠牲に感動し、悲しみに浸っています。同じ日本人ですら、電車が轟音を立てて近づいている時、線路に落ちた酔客のために、自分のからだを投げるほどの勇気を出すのは、容易ではなかったはずです。しかし彼は、1、2秒もしないうちに自分のからだを投げうっていました。まるで、不憫な人間たちを救うため、地上に降りた天使のように…」3年前、日本の若き作家亜洲奈みずほ氏が、故李秀賢(イ・スヒョン)さんに宛てた追悼文の一節だ。

◆みずほ氏は、この文の中で「あなたの息子さんは天国に召されましたが、多くの日本人の心の中に、いつまでも残っていることでしょう」と、息子を亡くした両親を慰めた。それは、作家の単なる修辞ではなかった。李さんが、東京の新大久保駅で亡くなってから3年が過ぎたものの、釜山(ブサン)市立公園墓地にある李氏の墓前には、日本人が供えた追悼の花束が絶えない。1000羽の千羽鶴を入れたガラス箱や、丹念に彫られた木工品を残した日本人もいる。

◆都市化、産業化とともに顕れる普遍的な現象が、周りとの断絶である。日本社会では、路上で誰かが強盗にあったり死んでいっても、顔を背けて通りすぎるといった、個人主義の蔓延を嘆く声が高い。日本人でもない「第3国人」の義挙が、日本社会に与えた感動とショックは、計り知れないほどだった。自分のことしか頭にない利己的な日本の若者たちは、韓国人青年の義挙に学ばなければならないという、国民教育のメッセ—ジが、日本のマスコミに充満した。

◆日本に苦しめられたわが国では、日本の熱い追悼ムードを、一部歪んだ視線で眺めているきらいもあるようだ。ナショナリズムとヒューマニズムの「感傷的な結託」と皮肉る論評がその一例。しかし、走ってくる電車の前で、酔客を救おうと反射的に身を投げた彼には、民族を考える刹那もなかったはずだ。危険に処した人を助けなければ、というヒューマニズム精神のみ、瞬間的に働いたのだ。そこへ、人種や民族が割り込む余地はないのだ。韓国人と日本人は「義人李秀賢」から、ヒューマニズムがナショナリズムに優先する価値であるという教訓を、ともに学ばなければならない。それが、李秀賢さんの3回忌に臨む心構えだろう。

黄鎬澤(ファン・ホテク)論説委員hthwang@donga.com