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水も電気も断たれ、「生きた者の悲しみ」いつまで続く 気仙沼を行く

水も電気も断たれ、「生きた者の悲しみ」いつまで続く 気仙沼を行く

Posted April. 11, 2011 09:16,   

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「これは、昨年、沖縄旅行の時に買ったカップです。あれは、10年前に友人からもらったプレゼントで…」。日本の宮城県気仙沼市の沿岸に住むカスクラ・トシオさん(70)は、骨組みだけ残った家の前にしゃがみ込んで、「見つけたのはこれだけだ」と力ない表情だった。悲嘆に暮れたようで、話を続けることができなかった。1ヵ月間、避難所生活をしている彼は、何度も家に来て、使えそうな物を探しているが、津波が襲った家の中は泥だらけだ。先月11日の大地震で、建物3階の屋上に避難した彼は、「海水が逆流し始め、2階にまで水が到達するのに30分もかからなかった。タンカーや数百トンの船舶が押し寄せて建物にあたった時は、『本当にもう終わりだ』と思った」と体を震わせた。

気仙沼は、日本の東北三陸海岸の港町の中で最も大きな魚市場がある観光地だった。しかし、旅館やホテル、飲食店などがすべて沿岸に集まっていて、被害が大きかった。津波に襲われてから1ヵ月が過ぎたが、沿岸の道路のあちこちには今でも大型の船舶があり、当時の凄惨な状況を推察させた。

港は、生臭い魚の腐った臭いで、しばらくいるだけで頭痛がするほどだった。電気が断たれ、沿岸の魚市場の大型冷蔵庫に保管されていた魚が腐敗したためだ。9日には、マグロやサンマ30万トンが90キロ近海に捨てられた。

毎日、自衛隊や警察、消防隊員数百人が復旧作業を行っているが、なかなかスピードが出せずにいる。電気や上下水道、ガスなどのライフラインの復旧率は20%にも達しない。建物の瓦礫を除去し、やっと道路が見え始めた。しかし、横道に入ってみると、所々に途切れたところが大半だ。

気仙沼は、大地震で市内沿岸の21の石油タンクから油が流出し、港一帯が火の海になった様子が世界に放映された。この時に流出した油は、200リットルのドラム缶6万本分で、3日間、燃え続けた。

気仙沼市の災害復旧作業を総括する佐藤健一危機管理チーム長は、復旧作業が遅れている理由について、「総体的な悪循環のため」と説明した。ライフラインを整備するには、まず瓦礫をブルドーザーで除去しなければならないが、建物の下にまだ遺体があり、一つ一つ瓦礫を取り除いて遺体収拾作業を並行しなければならない。地震で、沿岸の地面が0.7〜0.8メートル沈下し、満潮時にあちこちで浸水するのも問題だ。佐藤チーム長は、「一方で土を積み上げながら復旧作業をしなければならないため、時間が数倍かかる」と強調した。

避難民が日常の生活に戻るために、仮設住宅の工事も急がれる。しかし、住宅を建てる平地も資材も不足している。高い地帯の平地は、すでに学校や官公庁が入っており、宅地開発と相違ない大規模な整地作業をしなければならない状況だ。山のように積もった瓦礫を処理する場所も十分でない。今回の津波で、宮城県全体の瓦礫は1800万トン。年間のゴミ発生量の23倍に達する。23年分のゴミがあふれ出たわけだ。このため、気仙沼が以前の姿を取り戻すには、少なくとも1年以上がかかるものとみえる。

2リットルのペットボトルにどこの水かも分からない水を入れて運んでいた65歳ほどの女性は、「建物の3階に家があって、辛うじて命と家は大丈夫だったが、水も電気も止まり、『在宅難民』も同然だ」とため息をついた。



changkim@donga.com