

日帝強占期に日本へ渡った朝鮮後期の木造建築「観月堂(月堂)」が、およそ100年ぶりに故国★へ戻ってきた。海外に移された建築文化財が、このように比較的完全な形で返還されたのは初めてのことだ。
観月堂は、18〜19世紀に大君(王族上位階級)の祠堂として使われたと推定される建物。丹青(彩色)などに施された模様は、大変格式の高い建物であったことを示している。昨年、現地で解体されたのち、部材の形で保管されていた観月堂は、まだ正確な「元の所在地」が判明しておらず、学界の関心を集めている。
●龍とコウモリの彫刻、王室建築の証し
国家遺産庁は24日午前、メディア公開を行い「日本・鎌倉市の寺院・高徳院から観月堂の寄贈を受けた」と発表。「昨年解体された建物の部材を順次譲り受けた」と明らかにした。
同庁などによると、観月堂は1900年代初頭、純貞孝皇后(純宗の妃)の父・尹沢榮(ユン・テギョン)の所有だったが、彼の巨額の借金により朝鮮総督府傘下の朝鮮殖産銀行に渡ったとされる。その後、1924年に財政難に陥った朝鮮殖産銀行が、古建築に関心を持っていた山一證券初代社長の杉野喜精に譲渡し、日本に移されたとみられる。
ソウル大学建築学科のイ・ギョンア教授によると、「東京・目黒の自宅に観月堂を移した杉野が後に肺病を患い、高徳院の隣に別荘を建てて再び移設。その後、1934〜1936年ごろに高徳院へ寄贈されたと考えられる」と話した。「観月堂」と呼ばれるようになったのは、高徳院へ移された降のことだという。現地では最近まで観音菩薩像を安置する祈祷所として使われていた。
観月堂は正面3間、側面2間の切妻屋根構造。正面を除くすべての間に防火壁(不燃材料で作られた壁)が設置されており、構造と規模は朝鮮の祠廟様式を有している。ただし学界では、建物が他国に移される過程で一部構造が改変されたと見ている。分析によると、現在の基壇は日本・神奈川県や栃木県で採石された安山岩や凝灰岩でできている。
しかし、瓦や丹青に施された多彩な模様が、観月堂が朝鮮王室と関係する建物であったことを裏付けている。瓦には龍やコウモリの模様が刻まれ、丹青には雲や卍模様などが見られる。ソン・ヒョンスク東アジア伝統美術研究所長は「丹青は19世紀後半に再彩色されたものと見られる。18世紀後半から19世紀初頭に施された初期丹青と比較研究すれば、王室建築丹青の変遷が読み取れる。学術的価値が非常に高い」と話した。
●「純貞孝皇后の本家の建物だった可能性」
観月堂の存在は1990年代、学界や仏教界を通じて知られ、「日本に渡ったわが国の文化財」として継続的に取り上げられてきた。2010年には韓日両国の仏教界が協議し、韓国への返還がほぼ決まりかけたが、日本の右翼の反発などで議論が紛糾し、返還は実現しなかった。
その後、2019年に高徳院の住職で慶應義塾大学教授(民族学・考古学)の佐藤孝雄氏が、国家遺産庁(当時文化財庁)に「帝国主義時代に流出した文化財を返還したい」と提案。パンデミックの影響で遅れはあったが、建物の解体および移送費用はすべて高徳院側が負担した。これまで東京のオークラホテルにあった景福宮・慈善堂の遺構が返還された例はあるが、建物全体が戻るのは今回が初めて。
今後の課題は、観月堂の元の位置を特定することだ。ソウル・鍾路(チョンノ)区にある「開かれた松峴(ソンヒョン)緑地広場」となった純貞孝皇后の本家跡(朝鮮殖産銀行官舎跡)が有力とされるが、さらなる研究が必要とされている。イ教授は「日本に残る複数の記録をみると、『朝鮮王室に関係した』『道路拡張事業で取り壊された』といった記述があり、これらをすべて満たすのが現在の松峴洞の敷地だ」と指摘する。その他、鍾路区通義洞(トンウィドン)一帯の昌義宮(チャンウィグン)跡(東洋拓殖銀行官舎跡)や、かつて月宮と呼ばれた月城尉宮(ウォルソヌィグン)跡なども候補に挙がっている。
解体された観月堂の部材は現在、京畿道坡州市の伝統建築修理技術振興財団の収蔵庫に保管されている。木材1124点、石材・金物401点、瓦3457点などである。国家遺産庁は今後、修復と研究を経て、観月堂を元の場所に復元する案を検討している。
国家遺産庁のパク・ヒョンビン国外遺産協力課長は、「観月堂の元の所在地が判明しても、現土地所有者の同意が必要だ。難しい場合は、別の場所に仮復元してでも建物の歴史的価値を保存したい」と語った。
イ・ジユン記者 leemail@donga.com