悲しい時は、大掃除をする人を知っている。悔しい時に皿洗いをもっとしっかりする人も知っている。言ってどうしよう。一部の心情は言葉で解けるには硬すぎて、複雑すぎて、深すぎる。口に負えない感情はどこへ行くのか。それは体に行く。そのため、ある掃除や皿洗いは、まるで恨みのこもったサルプリダンスのようでもある。
体で表現する悲しみの行為。今日の詩は、その行為のリストにもう一つ追加する。それは箸の使い方だ。あまりにも悲しい人が、生米を取り出してきた。それを食卓ガラスに撒くなら、取りにくいだろう。火が通っていない生米は、硬くて頑固だ。箸で米粒を一つずつつまんでいたら、いつの間にか泣き止むようになった。米粒を拾った話はどこ一つ悲しいところがないが、あのシーンをじっと想像しているとどこ一つ悲しくない部分がない。
ここで散らばった米粒とは涙だ。たった一握りの悲しみを取り除くのにも、たくさんの汗と時間を費やさなければならないだろう。一人では疲れて、多分全部取ることができなかったかもしれない。それで詩人は向かいに座って、一緒に箸を持った。ただ、一緒に悲しみを取り出す。消えた涙が米粒一粒だけでも良い。それは今あまりにも必要なことではないか。