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芸術家の父親

Posted June. 22, 2022 09:10,   

Updated June. 22, 2022 09:10

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偉大な芸術家だからといって、すべての言葉と行動が偉大なわけではない。フランツ・カフカの場合もそうだ。彼が書いた「父への手紙」や日記を見れば、彼の父親は浅はかで俗物的で威圧的な暴君と描写される。これを額面どおり信じなければならないのか。父親は彼が書いた文を読まなかったが、もし読んだら、そのような評価に同意しただろうか。南アフリカの作家ナディン・ゴーディマーの「彼の父が送った手紙」はこのような疑問から出発する。この小説で、カフカの父親は地下で息子に手紙を書いて自分の立場を弁護する。虚構だが一理ある話だ。

父も言いたいことが多い。彼はあくせく働いて成功した商人だった。1日に12時間も店で働いた。そのおかげで豊かに暮らし、子供たちを良い学校に送ることができた。もちろん、その過程で自分とあまりにも違う息子に傷になる小言を言って厳しかったのは事実だ。だからといって彼を軽蔑し、彼の寝室から出る性愛的な声まで記録するのは、息子としてすることではなかった。自分の小説を読んでくれなかったと不平を言うこともなかった。彼は、息子の観念的な小説が読めるほど知的な人ではなかった。「私はお前と違って、幼い頃から奴隷のように働かなければならなかったので、本を読む時間があまりなかった。私は子供の頃、お前のように本のある部屋に閉じこもっていることができなかった。そうだったら、飢え死にしたはずだ」。その通りだ。知的な芸術も、パンがあってこそ可能だったのではないか。

カフカは、「私たちの中の凍りついた海を打ち下ろす斧」のような偉大な小説を書いたかもしれないが、父親を軽蔑して笑い物にしてしまった。彼は芸術家としては偉大だったが、子供としては温かさが足りなかった。ゴーディマーが繰り広げるカフカの父親の想像的な手紙、その含意に注目しなければならない理由だ。偉大だからといって、すべてが合理化されるわけではない。傷ついたからといって、傷つけることが合理化されるわけではない。特に親には。

文学評論家・全北(チョンブク)大学碩座教授