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なくしたボタン

Posted May. 07, 2022 08:37,   

Updated May. 07, 2022 08:37

한국어

勉強ができるということは難しいことだ。だが、上手く遊ぶことも勉強に劣らず難しい。生きていくためには遊ぶ時間がなく、遊ぶ時間がないから遊ぶ方法を忘れ、遊ぶ方法を忘れるため、もっと遊べなくなる。大人が何が遊びかと思うかもしれないが、遊びは、学者も認める文明の基盤だった。代表的には、ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と呼んだ。ホイジンガのもっと前のシラーという人は、「人間は遊んでいる時こそ真に人間なのだ」と言った。このように有名な人々によると、遊びは人間の本質であり解放の方法ということだ。言い換えれば、遊ぶことを忘れた人間とは、本質を探すことも解放も不可能になるということだ。

 

路地でめんこをして育った大人たちは思い残すことはないとしても、遊びの面で見れば、最近の子どもを思うと胸が痛い。遊びざかりの子どもが遊ぶことができなければ、その人生に遊びはいつやってくるだろうか。最近の子どもは、新型コロナウイルスのために外で遊べず、友だちがいなくても遊べず、塾や宿題で忙しくても遊べない。詩人イ・ジュングァンの詩を見ると、ボタンをなくしたことも知らずに遊びにすっかり夢中になった子どもが出てくる。このように運動場で我を忘れて走りまわってこそ子どもであり、それが幼年だ。その力で私たちは世の中を解釈し、生き延びることができる。子どもの日には、子どもに良いものを与えたい。「思い切って遊ぶこと」を贈りたい。