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単純に、ゆっくり、静かに

Posted April. 16, 2022 09:04,   

Updated April. 16, 2022 09:04

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私たちは「深い退屈さ」を失いつつある。退屈でないことのどこに問題があるというのか。何もすることのない人を嘲弄するのか。このように反問するなら、私は、退屈などころかだんだん忙しくなる現代の暮らしが病気のように感じられると答える。現代人は皆、忙しくなる病気にかかった人だ。今日忙しいのに、明日はもっと忙しい。同時にいくつかの作業ができるマルチタスキングの人間でなければならず、もっと多くの成果を出さなければならない。これを哲学者の韓炳鉄(ハン・ビョンチョル)は「過剰主義(hyperattention)」と表現した。ぼんやりしていたり、思いにふけったりする時間は贅沢や無駄な浪費と見なされる。しばらく時間を作って、静かに恋人のことや自分自身を振り返ることもできない。振り返れば止まることになり、止まれば後れを取る。急いで走らなければ、進むことができないのではなく、落伍する。残念なことだ。

実際、私たちは忙しいだけで、あまり悲しくない。労働の対価として受け取るものがあり、仕事がなければ生計に困る。だが不思議なことに、少しも悲しくない私たちが、少しも悲しくないこの詩を読むと、放心状態になる。夕暮れを目にすることができる暮らし。煙突の煙が無意味に散る形をただ眺める暮らし。風景に自分の心を発見する暮らし。分かっているが接することができないことがここにある。それゆえこの詩は、走り続ける私たちの肩をつかみ、勧めてくる。友よ、ちょっと休め。少しの間だけ退屈になれ。

文学評論家