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「食った罪」

Posted March. 16, 2022 08:54,   

Updated March. 16, 2022 08:54

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その日は特別な日だった。王が畑を耕して豊作を祈る日。王の犂(すき)は金で、臣下たちのすきは銀で飾られていた。王がすきをつかんで出発すると、臣下たちも出発した。華やかな儀式だった。ところが、野原で働く農民の姿は華やかさとは程遠かった。彼らの体はやせこけていた。天気まで暑くて、農夫もふうふう言って牛もふうふう言っていた。牛はむちに打たれて、体を裂かれながらすきを引いた。すきで土を耕すと、虫がよじよじと出てきた。すると、鳥が飛んできて、争って虫をついばんだ。

その姿をじっと見つめる12歳の少年がいた。その国の王子だった。彼は心が痛かった。ある者は豪華に暮らし、ある者は裸になって、炎天下で畑を耕す農夫として暮らし、ある者は鼻輪をさせられ、むちに打たれる牛として生きている姿が、彼を苦しめた。生きている者同士が食って食われる残酷な生死の食物連鎖は、彼をさらに苦しめた。これは釈迦牟尼の幼年時代にまつわるエピソードだ。パン・チルファン詩人の「食った罪」は、12歳の少年シッダールタが、何千年も前に感じたような感情を部分的に喚起する短い詩だ。

「小鳥たちに与える草虫を捕まえてきた/ツグミを鷹がさらっていった/辛うじて抜け殻から抜け出して羽を乾かしていた/トンボをカワセミが飲み込んでしまった/午前に生えてきた若芽をリスが蝕む/しかしどの類族も復讐を夢見ない/食べ終わった罪があるからだ/限りなく悲しくても寂しい、緑の森の中のことだ」

耕した土から出た虫を鳥が食べ、草虫を捕まえてくるツグミを鷹が食べるのは、誰のせいでもない。食ったり食われない存在がどこにあろうか。彼らがお互いに向かって復讐を夢見ていないのは、自然の法則だからだ。詩人が森で起きていることを眺めながら感じる感情は、シッダールタが12歳の時に感じた感情からそれほど遠くないように見える。そうした憐れみの感情から詩も生まれ、宗教も生まれる。

文学評論家・全北(チョンブク)大学碩座教授