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同じ釜の飯

Posted January. 22, 2022 08:21,   

Updated January. 22, 2022 08:21

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寒さと言ってもすべて同じ寒さではない。空腹ならより寒い。学校もユーチューブもこの明らかな真実を教えてくれない。これは、空腹ゆえにより寒さを感じた人が教えるか、空腹で寒さを自ら感じて知るほかない。おなかがすいた冬の夕方、一さじの飯は冷えた体を溶かし、寂しい胃を慰める。時に飯は飯以上だ。

日々の食事は生存のための行為だが、ある食事には一種の意味が存在する。そのため、私たち皆に忘れることができない食事が存在する。体の具合が悪い時、誰かが作ってくれた1杯のお粥。顔が真っ黒な私を連れていって何も言わずにクッパ(スープと飯を組み合わせた料理)を食べさせてくれた人。毎日食べる時はわからなかったが、食べられなくなると思い出す母親の料理のようなものだ。

飯以上の飯、意味を持った食事は、この詩にも登場する。詩人が愛情を込めて作った弁当は、山の野生の動物や鳥に与えられた。それは、あちこちに分かれ、あの体の血になり、この体の乳になった。物理的には栄養分を分けたというのが正しいが、私たちはこの詩をそうは読まない。これは、心が広がっていったのだ。弁当を作った人の心と弁当を動物に与えた人の心が多くの生命を生かす。真心のこもった温かい釜の飯が思い出される季節だ。

文学評論家