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李石基事件、従北勢力の終焉の始まりだ

Posted September. 11, 2013 06:28,   

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1980年の5・18民主化運動の失敗は、運動グループ内部に激しい論争を引き起こした。当時運動グループの主流は、朴正煕(パク・チョンヒ)維新体制と全斗煥(チョン・ドゥファン)政権によって抑えつけられた自由民主主義を回復するというレベルから、現存体制を暴力で転覆する社会主義革命へと路線を修正した。このうちの一部が、1980年代の半ば以降、同民族が樹立した社会主義体制の北朝鮮と連帯しない革命は偽善だとして、北朝鮮の革命路線を積極的に受け入れた。

しかし1989年に始まった東欧と旧ソ連の崩壊は、マルクス・レーニン主義の革命を追求していた運動家たちを、深い悩みに陥れた。結局大多数が運動を捨てて生業や留学に人生の進路を変えた。しかし「NL主体派」だけが崩壊しなかった。「モスクワに雨が降るからと言って、平壌(ピョンヤン)で傘を刺す必要があるのか」という論理だった。

同年(89年)、北朝鮮は社会文化部副課長のユン・テクリムを韓国に送り込み、韓国内の主体派の創始者である金永煥(キム・ヨンファン)氏と接触したが、これは1992年3月、民族民主革命党(民革党)の結成につながった。民革党の他にも、92年に摘発された中部地域党、94年の救国前衛、2006年の一心会、2011年の王載山(ワンジェサン)はいずれも1980年代の主体派学生運動からスタートした人物たちが作ったか、関与した組織だ。これらの組織は、最初は韓国で始まっていても、究極的には北朝鮮と連携したし、目標は「南朝鮮革命」だった。

韓国の従北地下党の歴史は長い。1968年には統一革命党(統革党)、1979年には南朝鮮民族解放戦線(南民戦)があった。統革党は金日成(キム・イルソン)の指示によって作られた休戦後初の韓国内の地下党だった。統革党は、「韓国民族民主戦線」「反帝民戦」と名前を変えながら対南宣伝を続けた。南民戦は、民革党事件で指名手配になったイ・ジェムンが組織を結成して活動しながら、北朝鮮と連携するため、日本に組織員まで送った。

韓国内の従北地下革命勢力の根は深いが、時間が多くのことを変えてしまった。60、70年代の地下党事件に巻き込まれた関係者たちの一部は、今も各種従北団体の長老として活動しているが、もはや生物学的な限界に来ている。民主化が実現し北朝鮮の実像が明らかになってから、80年代末から90年代半ばにかけて、銃数万を超えるされた主体派の大多数も運動グループを離れた。

だが、余震は残っている。李石基(イ・ソッキ)は民革党の前身、反帝青年同盟の創立中央委員として80年代主体派の嫡子の一人だ。いわゆる単線連携で繋がっている地下組織は、一度露出されると組織再建が容易でないという特徴がある。李石基は民革党事件で実刑判決を受けて服役していながら、出所後に京畿道(キョンギド)地域を中心に地下組織ROを再建し、勢力を拡張して合法政党の統合進歩党の主導権を掌握、国会にまで進出したのだから、実に驚くべきことだ。

それが可能だったのは、李石基の手腕とは別に時代的な背景がある。90年代後半、従北主体派勢力に寛大だった進歩派政権の登場だった。とくに進歩派陣営の反米民族主義は、統合進歩党まで同志として受け入れる原因になったのだ。

今回の事件で従北勢力が完全に撲滅されたりはしないだろう。今後も、様々な形で似たような事件が起きる可能性はある。しかし、従北革命勢力の歴史を総括してみると、李石基グループのように、政党を掌握して国会に進入できる勢力を持った集団が存在する可能性は低い。その意味で、今回の事件は従北革命勢力の歴史的終焉を告げる始まりと言えそうだ。