プロ野球ロッテ・ジャイアンツの4番打者出身で野球解説者の馬海泳(マ・ヘヨン)氏は1993年、豪州で開催されたアジア選手権に出場した。国家代表メンバーで最年長だった馬氏は、最年少だった漢陽(ハンヤン)大学1年生の朴賛浩(パク・チャンホ)と宿舎で同じ部屋を使ってびっくりした。朴賛浩はトレーニングが終わると、浴槽にお湯と水を交互に入れて入った。まるでリハビリ治療でも受けるような入念さだった。お湯と水を入れる間には休まず腕立て伏せをした。シャワーを浴びた後は、浴室のドアにチュービング・バンドをかけては、引きながら筋力と柔軟性を育てた。
◆朴賛浩は、下半身が丈夫でなければ良い投手になれないという話を聞いて、子どもの時からスクワットで坂道を上がった。下半身を強化しなければならないという意識は病的と思われるほどで、走りにこだわった。米大リーグ進出後も、LAドジャーズではチーム練習の2時間前から野球場に出て運動をし、登坂する日は試合前に数字パズルをしながら集中力を育てた。02年、テキサス・レンジャーズと5年間6500万ドルの大型契約を結んだが、繰り返された負傷で成績は振るわず、「食い逃げ」とも批判された。馬海泳氏は、「FA(自由契約選手)になるために、自らを酷使した後遺症で負傷が多発したようだ。移籍初年度だけでも休みながら体力を付けていればよかったのに…」と残念がった。
◆米国進出3年後の1997年、フルタイム大リーガーになった朴賛浩は、5年連続で2桁勝利を記録し、通貨危機で落ち込んでいた国民に希望を与えた。球速160キロに近い剛速球にびっくりした大リーグのスカウトらが野球の辺境地である韓国へ飛んできた。徐在応(ソ・ジェウン)、金炳賢(キム・ビョンヒョン)、奉重根(ポン・ジュングン)のような「朴賛浩キッズ」が続々と米国の地を踏んだ。大リーグはもはや手が届かない異次元の世界ではなかった。朴賛浩と後輩らは、野球の本場の巨砲に堂々と立ち向かって国の威信を高揚させた。
◆大リーグ通算124勝98敗、1993投球回。アジア出身最多勝、最多投球の偉業を打ち立てた朴賛浩が引退を宣言した。所属チーム・ハンファのファンは、「彼は存在だけでも価値がある」と残念がった。★後輩たちにとっては、彼の目つきや行動一つを見るだけでも見習う点が多いという意味だった。朴賛浩がホームページに残した最後のメッセージは、「申し訳ありません。感謝します。そして愛します」だった。私たちが彼に返したい言葉だ。
李亨三(イ・ヒョンサム)論説委員 hans@donga.com






