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慧超の心、時空を超えて私たちのもとに

Posted December. 10, 2010 07:54,   

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1908年2月25日、フランスの東洋学者、ポール・ペリオは、シルクロードの要衝地である中国・敦煌の莫高窟に到着した。中央アジア調査団を構成し、新彊ウイグル地域のカシュガルに入って1年5ヵ月後のことだった。ペリオの頭の中は、敦煌文献一色だった。新疆ウイグルに滞在していた時、敦煌の莫高窟で貴重な古文書が発見されたという話を聞いたためだ。

莫高窟に到着した翌日から、ペリオは現地調査に着手した。すぐに王道士に会った。王道士の名前は王圓籙。900年に莫高窟に流れてきて、道士を務めた人だった。ある日、莫高窟16窟を掃除していた時、偶然、17窟の石室を発見した。その中には多くの古文書が3メートル以上の高さにまで、山のように積み上げられていた。古文書を収蔵していたことから、この17窟を蔵経洞と呼ぶ。王道士は、一種の管理人の役割をすることになった。

王道士を通さずには、敦煌文献に近づくことができない。そのため、ペリオは王道士のもとにやってきた。王道士は、ペリオの前にここを訪れたロシアの探検家には、石室の存在すら知らせず、英国のオーレル・スタインには、石室の中に足を踏み入れることすら許さなかった。しかし、ペリオの流ちょうな中国語に、王道士は気を許してしまった。王道士は結局、石室の調査を許可した。

1908年3月3日、調査が始まった。ペリオは、1日目に10時間、座り込んで古文書を調査した。ほとんどが6〜10世紀の貴重な文書だった。漢文の経典だけでなく、様々な言語の古文書も多かった。ペリオは、この石室が東洋学の宝庫だと考えた。ペリオの調査は3週間続いた。

調査していたある日、ペリオは、前後の一部がはがれた筆写本の巻き物を発見した。書名も著者名もなくなっていた状態だが、ペリオは息が止まる思いだった。それは間違いなく慧超(ヘチョ)の『往五天竺国伝』だった。ペリオが、中央アジア探険の前に、慧琳(ヘリム)の『一切経音義』を読んでいたので、そこに出てくる『往五天竺国伝』の内容が一目で分かったのだ。これまでに習得した東洋学に関する知識、漢字や中国語の実力のおかげだった。

ペリオは、王道士に交渉をもちかけた。17窟の石室内にある、すべての文書を売ってほしいという交渉だった。王道士がこれを受け入れるはずがなかった。ペリオは何度も説得し、最終的に道士は折れた。ペリオは、重要文書約6000点を選び、500両という安値で手に入れた。ペリオは5月30日に敦煌を離れ、10月5日に北京に到着した。ここで、古文書をフランスに送った。『往五天竺国伝』は、すぐにパリにあるフランス国立図書館に所蔵された。翌年の1909年5月、ペリオはこの事実を学界に報告した。1915年には、日本人学者の高楠順次郎が、慧超が新羅の僧侶であるという事実を明らかにした。

シルクロードと『往五天竺国伝』を研究してきたチョン・スイル韓国文明交流研究所長は、慧超を「韓国初の世界人」と強調した。慧超は704年頃、新羅の首都・慶州で生まれた。慧超は、719年、15才の幼い年で、密教を学ぶために中国に渡った。4年後の723年、19才の時に、インドへ求法紀行を強行した。

広州を出発し、航路でインドに到着した慧超は、仏教の8大聖地を巡礼した後、西方のガンダーラを経て、ペルシャとアラブを通過し、再び中央アジアを通ってパミール高原を越える。さらに、クチャと敦煌を経て、727年11月、唐の首都・長安(今の西安)に到着した。4年に渡る約2万キロメートルの大長征だった。

『往五天竺国伝』には、慧超の大長征の旅程が生き生きと記録されている。『往五天竺国伝』は、五天竺国(インドの中国式名称)について書いたものだ。しかし、この紀行文には、五天竺国をはじめ、西域地方についての様々な情報が満載だ。

『往五天竺国伝』は発見当時、前後の一部が毀損した状態だった。現在残っている部分は、総227行、5893字。縦28.5センチメートル、横42センチメートルの大きさの紙9枚で作られている。全長は358センチメートル。莫高窟の蔵経洞で発見された巻き物の筆写本については、慧超が直接書いたとされる見方がある一方、慧超の原本を見て、誰かが筆写したと言う者もいる。これに対し、国立中央博物館のオ・ヨンソン学芸員は、「どちらかは正確に分からない状況だが、筆写した場合、その年代は10世紀以前と見るのが学界の通説だ」と話す。

慧超の天竺の旅は、基本的に求法の旅だった。東天竺国の旅の主な関心は、仏教に関することだった。しかし、中天竺、南天竺、西天竺、北天竺と移動するにつれ、慧超の関心は仏教にとどまらなかった。政治、経済、社会だけでなく、衣食住のような日常生活、言語、地理や気候など、自然環境に魅せられた。人間の暮らしに関する内容を記録したのだ。慧超は、求法の旅をした密教僧だったが、好奇心に満ちた文明探険家でもあった。慧超を韓国初の世界人と呼ぶのもこのためだ。

慧超の道程は、シルクロードを貫通した。慧超は4年間旅をし、故郷の慶州を懐かしく思うこともあった。『往五天竺国伝』を見ると、慧超が故郷を懐かしむ詩が書かれている。遠い異国の地で、月の明るい夜、流れる雲を見て、鶏林を懐かしく思う内容の詩。鶏林とは、慶州のことをいう。この詩は、慧超が新羅人という事実を立証するものである。

慧超は、このように故国を懐かしんだが、唐の長安で密教を研究し、780年、76才で入寂した。異国の地での慧超の死は、世界人としての運命だったのかもしれない。

チョン所長の話。「慧超は、史上初めて、アジア大陸の中心部を海路と陸路で一周して、現地の見聞録を残し、東西文明交流史において先駆的な役割を果たした。慧超は、明らかに韓国初の世界人だ」。



kplee@donga.com