07年12月、オランダ出身のピム・ファーベーク監督のバトンを受け継ぎ、許丁茂(ホ・ジョンム)監督が、韓国のサッカー代表チーム監督に就任した時の話だ。許監督は、引き続きトラブルに巻き込まれた。記者らと良い人間関係を築いている許監督が電話で話した内容が記事となり、これを書けなかったマスコミから非難の声が上がった。マスコミ担当官に全てを任せた外国人監督時代から再び国内派監督時代になり、過去の悪習が再度始まったようで、記者は後味が悪かった。初期代表チームの成績もそれほど良くなかった。しばらく、許監督は携帯電話の番号を変え、公開しなかった。
韓国人監督史上初のW杯勝利と遠征初ベスト16入りという二兎を同時に捕ったことに、許監督の個人的な変身が大きく貢献した。一言で生まれ変わったのだ。
許監督の自分スタイルを曲げないことでは、国内監督で右に出るものがいないほどだった。しかし、変化を試みた。コーチングスタッフと協議をする時も、結局は自分の主張を貫くのが慣例だったが、ある瞬間から鄭海成(チョン・ヘソン)コーチ、金顕泰(キム・ヒョンテ)GKコーチ、パク・テハコーチの話に耳を傾けた。朴智星(パク・ジソン)に主将の腕章をつけさせたのが代表的だ。最初、許監督は他の選手を選んだが、コーチングスタッフの意見に従い、朴智星をキャプテンに指名した。朴智星は、黙々と最善を尽くす優しいリーダーシップで選手らをよくリードした。
許監督は、プロ監督と1998年から3年間の代表チーム監督時代、代表的な「練習至上主義者」だった。あまりにも厳しい練習で、選手らが外泊から復帰するのを恐れるほどだった。しかし、許監督は科学的な練習プログラムを導入し、練習量を合理的に調整した。
「珍島(チンド)犬」と呼ばれるほど頑固だった許監督は、和合・自律・肯定の3つを強調した。練習する時も食事する時も、笑みを失わない。選手らが間違えたのは指摘するが、絶対責め立てたりはしない。褒めることも多くなった。全ての責任は自分が負い、勝利の光栄は選手らの分け前にした。ギリシャを相手に初勝利を挙げた時、ベスト16入りを確定付けた時、彼は「私がやったことはない。全て選手らのおかげだ。選手らに感謝する」と話した。彼のこのような変身の結果、国内監督としての初勝利と史上初の遠征ベスト16入りの快挙を成し遂げた。
許監督が、このように変わったことには浮き沈みの激しい指導者としての人生も、一役買った。許監督は1998年、五輪と代表チームの監督となったが、00年シドニー五輪と同年アジア大会の成績が振るわないという理由で辞退を迫られた。
あいにく、許監督以後、01年初オランダ出身のフース・ヒディンク監督の赴任以来、ウンベルト・コエリョ、ヨハネス・ボンフレール、ディック・アドフォカート、ピム・ファーベーク監督まで続いて、外国人が韓国サッカーを牛耳った。
ヒディンク監督は02年韓日W杯の時、ベスト16入りを越え、アジア初のベスト4入りを達成した。07年、ピム・ファーベーク監督が離れ、再び国内派に指揮棒が回ってきて、許監督が司令塔になったので、彼としては「国内派の限界」を乗り越えなければならない重責を負うことになった。ベスト16入り進出で、彼は自分の役割を全うした。
許監督の戦術も輝いた。許監督はナイジェリアとの最終戦で、セットピースで勝負が決まることを見込んで、相手のセットピースを阻む方法と我々がセットピースでゴールを決める練習を集中的に行った。結局、韓国は同日、李正秀(イ・ジョンス)と朴主永(パク・ジュヨン)がセットピースで連続ゴールを決め、1次目標の達成に成功した。
yjongk@donga.com