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「あなたは希望を見せてくれました」

Posted February. 04, 2004 00:42,   

先月、南極点を踏んだ朴ヨンソク氏(41)が、1953年に世界最高峰エベレストを初めて登ったエドモンド・ヒラリー卿に会った。二人で歴史的な出会いは、3日午前、ニュージーランドの高級住宅街にあるヒラリー卿の自宅で行われた。

朴氏は南極点に到逹した後、チリを経て前日、オークランドに到着した。彼は荷物をとくやいなや、そこに居住するヒラリー卿に会うため百方手を尽くした。しかしヒラリー卿の秘書は、「ヒラリー卿は老患のため、外部人とは一切会わない」と断った。実際に、彼は外出する時も酸素マスクをかけるなど身体が良くなかった。

このまま諦めるしかないのかと思った瞬間、思いもかけなかったことが起きた。

「ヒマラヤ8000m級14座と世界7大陸の最高峰を全て上がって、今回は南極点まで行ったからには会ってみなくちゃ」と言って、ヒラリー卿の秘書たちが止めるにもかかわらず、朴氏の面談要請を受け入れたのだ。

面談は1時間近く続いた。朴氏がエベレストに上がったのが1993年だから、彼らは40年の間隔を置いて並んで世界最高峰に立ったことになる。ヒラリー卿はたまに疲れた気配を見せたが、精神ははっきりしており、朴氏に多くの質問をした。

彼は朴氏からこの間の活動を盛り込んだ記念郵便葉書をもらって、「これから北極点さえ踏めば、世界初めて山岳グランドスラムを完成することになるんだね。さて、全部成し遂げた後は何をする計画か」と聞いた。朴氏が、「しなければならないことがたくさん残っています」と答えると、彼は南極点遠征中に凍傷でところどころに黒い傷あとができた朴氏の顔を指差しながら、「すごく寒かったろ?私も南極へ行った時のことが思いうかぶ」と言ってしばらく考え込んだ。

ヒラリー卿が南極大陸を横断したのはほぼ半世紀も前のことだった。朴氏は徒歩で南極点を踏んだが、彼は1957年から翌年まで農場用トラクターに乗って横断した。ヒラリー卿は、「当時は南極大陸横断は夢見ることもできなかったが、トラクター会社が後援してくれて試みてみたんだ。当時は防寒服が良くなくてすごく寒かった」と記憶をよみがえらせた。

歳の話も出た。朴氏が41歳だと言うと、ヒラリー卿は、「探険家にとって41歳は体力もあって経験も積もった黄金みたいな歳だ」と励ました。彼はまた、「頂上に上がるのはたやすいことではない。最善を尽くしてこそ成功できる。探険家の挑戦精神から私は希望を見つけ出す」と朴氏を感心した目で見つめた。

同席した記者が気難しい質問を一つ投げた。「一緒に上がったシェルパのテンジン・ノルゲイとヒラリー卿のうちでどちらが先にエベレストの頂上を踏んだのかいまだに問題になっていますが。」

すると隣に座っていた夫人のジュン・ヒラリー女史が本を1冊を取り上げて、「それについて詳しく出ているから読んでみなさい」と言った。エベレスト初登50周年だった去年、増補版で発行した本だっだ。題目は、「エベレストからの眺め(View from the summit)」。この本でヒラリー卿はエベレスト征服の瞬間を次のように書いた。「最後の2時間30分間は私が先に行き、頂上も私がロープ1つの長さぐらい先に上がった。テンジン・ノルゲイの立場を思って同時に上がったことにしたのが後で問題になった。」(テンジン・ノルゲイも彼の自叙伝「雪山の虎」に、「私がザイルを持って2m後からヒラリーに付いて上がった」と書いた。テンジン・ノルゲイはまた、「ヒラリーがクレバスに落ちた時、私がザイルを確保してあげなかったら、今日のヒラリーはいなかったはずだ」と書いた。ヒラリー卿もこの部分に対して、「当時、ザイルが張られていなかったら、私は墜落したに違いない」と認めた。)

ヒラリー卿は後輩山岳人との対話が楽しかったのか、朴氏の背中をたたきながら、「マイ・ジュニア(私の息子または後輩)」とも言った。また、別れる時は身体が不自由であるにもかからわず、玄関の外まで出て見送ってくれた。彼は朴氏から人参茶と七宝で飾った飾り物をプレゼントしてもらって、子供のように喜んだ。

一方、朴氏を含めた5名の南極点遠征隊員たちは5日午前6時50分、大韓(デハン)航空8828便で仁川(インチョン)空港を通じて帰国する。



田昶   jeon@donga.com