10日午前の北京は、みぞれが降る陰うつな天気だった。第10期全国人民代表大会で、最後の報告を行った李鵬(75)全人代常務委員長は、万感が去来したような表情だった。
李委員長は「胡錦涛総書記を中心に、団結して中国の特色のある社会主義事業の新たな成果を成し遂げてもらいたい」という平凡な内容で1時間の報告を終えた。そして国務院機構の改編案を原案どおり通過させ、職責を果たした。
すでに5日の全人代開幕日に、「私の任務は終わった」と公式に退陣宣言をしており、同日の報告では、特に所感は述べなかった。
李委員長は、いわゆる中国政界の「紅色名門」の出身だ。父親の李碩勳は、1927年に周恩来、朱徳らとともに南昌蜂起を主導した人物で、国民党に逮捕されて処刑された。母親の趙君陶は、1921年に周恩来、頳小平らとともに、フランス留学中に中国共産党のヨーロッパ総支部を結成した趙世炎の妹だ。周恩来の上司だった趙世炎は、1927年の上海政変で国民党に殺された。
このような因縁で、李委員長は子供がいなかった周恩来、頳穎超夫婦の養子になり、1948年に周夫婦によって旧ソ連に留学することができた。彼が、1983年の副首相就任に続き、1989年に首相に昇進することができたのも、頳穎超が「私の息子は安心できる」と元老らに積極的に推薦したお陰だ。
太子党の典型的な人物で、スピード昇進をした彼だが、1989年の天安門事件前までは、中国人民にとってただの平凡な人物に過ぎなかった。しかしこの事件で、彼は国内外で、残忍で非人道的で無能な政治家と言う烙印を押されてしまった。李首相は当時、趙紫陽総書記と対立しており、頳小平に強硬鎮圧を申し出た。
彼は、趙紫陽の失脚で、内心ではナンバー1である国家主席の座を欲したが、頳に背を向けられた。「天安門虐殺の主犯」というレッテルがはられたうえ、改革開放路線にふさわしくない人物と判断されたからだ。1997年に全人代常務委員長になった後も、彼は家族の腐敗問題や、首相時代に彼が直接関与した三峡ダムの工事責任者らが次々に収賄で拘束されたことで、話題の人物となった。
このような否定的な見方にもかかわらず、李委員長を知る周辺人物は、彼が政治局常務委員になっても夜遅くまで仕事をするなど、大変誠実な人物だったと語る。
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