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ハーメルの村、康津

Posted September. 04, 2002 22:53,   

349年(1653年)濟州道。難破船スペルベル号(オランダ東インド会社所属の商船)の航海書記ハーメルは、同僚35人と一緒にこの地に足を踏み入れる。この漂流事件、これが朝鮮を当時の世界の中心の欧州で最大の関心国家に浮上させた契機になると予測した人は、誰もいなかった。

2002年のヒディンク監督のように、それは15年後、オランダで発刊された彼の航海日誌の影響だ。当時この本は英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語で発刊され、最高のベストセラーとなり、朝鮮を世界の中心にまで上げてくれた。

日本の(九州)のオランダ商館を訪ねようとして来たものの、漂流してしまったハーメル一行。彼らは自分たちが上陸したところがどこなのか正確に分かっていた。抑留された彼らを調査するため、都城から通訳が来た。驚いたことに、彼もオランダ人だった。26年先に朝鮮に来たウェルタブレーだった。報告を受けた孝宗は一行を都城に呼ぶ。このようにして始まったハーメルの朝鮮旅行。それは、韓国南海岸、海南(へナム)から始まった。

霊岩(ヨンアム)、羅州(ナジュ)、長城(チャンソン)をたどり、笠岩山城、井邑(チョンウップ)、泰仁(テイン)、全州(チョンジュ)を経由し、公州(コンジュ)を経て、南大門(ナムデムン)まで14日間。 孝宗の宮中宴会に招かれた彼らは、王様の外出の際、護衛をする親衛隊の外人部隊で2年間、豊かな毎日を送る。しかし、紆余曲折の末、 全羅道(チョンラド)の兵營( ビョンヨン)に島流しされ、7年間を送る。

兵營は康津(カンジン)と霊岩の中間にある地域。一行は、それぞれの家で自由に暮らした。一部の人は結婚もし、子どもも作った。孝宗からもらった米で生計をたて、労役に服したりもした。凶作の時は乞食をし、船で島を行き来しながら、商売もした。生魚を塩に漬けて食べるオランダ式セイギョ漬けも教えてくれた。

このような歴史がある兵營、霊岩、康津。そこで、我々はハーメルの遺産とも言えるものを発見することができる。ユニークな石垣だ。一定のパターンで黄土を入れてつくった石垣。「ハーメル式垣根」と言われるこの石垣は、この村の至ることろにある。ハーメル一行が集まって暮らしたとするイチョウの木の隣の川にもある。補修工事が進行中の兵營城の工事が終わると、この石垣に対する考証も行われるだろう。

霊岩は、ハーメル一行が上京する時、同僚一人の遺体を埋めたところ。兵営では、3年間の干ばつのすえ、一行のなかで11人が死亡した。全羅兵營は残り22人を順天(スンチョン)、麗水(ヨス)、海南(へナム)に分散収容した(1663年)。ハーメルの朝鮮脱出は、この時準備された。翌年、漁船を求め、抑留13年ぶりの1666年8人は、麗水で引き潮の時に脱出する。335年前の昨日、9月4日のことだ。朝鮮抑留13年ぶりのことだ。これは3回目の脱出の試みだった。その2日後、日本の平戸島に到着する。妙な縁だ。ヒディンク監督が韓国を訪れた日が、ハーメルが朝鮮を世界に知らせた『ハーメル漂流記』の誕生日なのだ。

▲旅行情報〓ハーメルが経由した海南、霊岩、康津は、自動車でドライブするコースとしては最高のコースだ。▲海南〓頭輪山大興寺(デリュンサン・デフンサ)、達摩山美ファン寺(ダルマサン。ミファンサ)、展望台などがあり、甫吉島(ボギルド)も一日コースで行ける(8月29日付けC8面You&Me参照)▲康津〓青磁村、萬鄹山(マンドックサン)、白蓮寺(べクリョンサ)と茶山(ダサン)展示館などがある。▲霊岩〓月出山道岬寺(ウォルチュルサン・トガップサ)が有名だ。



summer@donga.com