世界中の人々の視線を集め、1ヵ月間にわたる祭りが終わった。19世紀以来、国運が下り坂を迎え、日本帝国主義の犠牲に遭い、ついには国が分断されるまでに至った私たちの現代史において、今回の出来事は、驚きとともに新しい経験であった。
とりわけ、かつての韓国戦争の影響から、対外的には戦争の惨状だけが強調され、未だに貧しい国という認識が根強い中でのW杯は、国のイメージを大きく変える契機となった。
さらに、1世紀以上にわたって続けてきた、西欧に対する劣等感を乗り越え、誇りを取り戻す契機となったということからも、ひとつの転機となるはずだ。
西欧に遠因を置くスポーツであるだけに、東洋人の体格や体力では難点が多かったはずだが、まさにその西欧人の監督を雇って知彼知己(彼を知り己を知る)の戦略を駆使したのだから、わが国の力と識見も、もはや相当のレベルに達していると自負してもよさそうだ。
ところが、今回のW杯がもたらした自負心の回復は一時的なものであるとともに、外向的なものであるため、これからは内実を極めた自負心の回復に目を向けるべきだろう。
それは、アイデンティティーの確立とかかわりを持つ一方で、わが国の歴史と伝統に対する真の理解と愛情から始まるべきであるが、わが国の歴史に対する理解は、先ず殖民史観の克服と正しい歴史観の定立など、整地作業を必要としているうえに、時間を要することである。それより優先してできることは、生きている伝統文化である文化財の復元と保護であり、とくに失われていく文化財をよみがえらせることが急務である。
その代表的なものとして、王室関連文化財の王宮や王陵が挙げられる。大部分の王宮が、日本による植民地時代に破壊されているのに比べ、王陵は我々の手によってき損されており、私たちを悲しませている。とりわけ、ソウル付近に散在している朝鮮王朝の王陵は、私たちの現実的な必要から、本来の姿を失いつつある。
そのうえ、王室関連文化財を尊重しようとの論議を、復古主義としてけなすといった単細胞的な考え方まで加勢する一方、王室関係史を専攻することを、前近代的だと考える近代主義的学風も、事態を悪化させる要因として働いている。王室関連文化財は、私たち国民が共有している高級文化の象徴である。
王陵は、王と王妃の死後の安息所として認識されていただけに、孝行を最たる徳目としていた当代の技術水準と芸術的な能力が最大化した文化財である。古代中国、秦の始皇帝は、自らの陰宅(墓)を自分の手で造ろうと、国力を総動員している。
しかし、わが国の王陵は、礼儀を重んじた時代、後を継いだ王が葬礼のために誠を尽くす装置であり、彼らの考え方や価値観までを含む、複合文化財である。
王陵の位置と規模、屏風石や欄干石の有無、正妃の外に継妃が存在する場合、どの王妃を合葬するかといった問題、石物の位置づけ及びその大きさや洗練性、周りの造景などの研究を通じて、当時の歴史を再構成できる立派な資料であり、総合芸術品である。
ソウル城北区(ソンブック)ソッカン地区にある懿陵(ウィルン、朝鮮第20代王の景宗と継妃の陵)は、私たちの手で滿身そういにしてしまった良い事例である。この陵は、朝鮮王朝第20代王の景宗(キョンジョン)とその継妃が葬られたところだ。私は、高校時代この近くに住んでいたが、チョンジャン山の東側にあった懿陵脇の松林に覆われた山道をとことこ歩いて通ったり、退屈になるとよく懿陵に立ち寄って一休みしていたものだ。
あれから40年が過ぎた今、文化財委員として当地を訪れた私は、桑田碧海ということばを実感した。あの立派な松の木々は跡形もなく、楼閣の前に池を掘っているうえに、日本種の庭園樹を辺り中に植えている様子を見て、驚がくを禁じえなかった。左青龍右白虎にあたる小山は、建物の下敷きになっていた。見慣れた楼閣の前にあったヒノキの古木が2本立っているだけだった。それは、わが国の現代史の屈折を赤裸々に物語っており、無造作に生きてきた私たちの自画像を見るようで、胸が痛んだ。
王陵の前に池を造るとは、想像もできないくらい非常識な仕業である。一日も速く池を埋め、周りを整理して原状を回復すべきだ。
現在残されている建物も、建築年代に沿って徐々に整理する必要があるが、先ずは懿陵の近くにある建物から取り払うようにする一方、少し離れたところにあってまだ使えそうな建物は、文化財を管理したり研究する機関が使用しながら、懿陵を管理・保存して復元することに役立たせるべきだろう。
鄭玉子(チョン・オクジャ)ソウル大教授(国史学・奎章閣館長)






