コンピューターのキーボードが、ハングルのカナダラ順に配列されていたなら、キーを打つのに早く慣れるだろう。現在のキーボードが標準になったのは、以前使われていた手動式タイプライターのおかげである。手動式タイプライターは、打つときに指が絡まないように、現在のようなキーボードを使うようになったのだ。ところで、コンピューターにはこのような問題がないにもかかわらず、旧式のキーボードがそのまま使われている。使いやすい新式のキーボードが、旧式に取って代わることができない理由は、旧式キーボード大勢論の克服に失敗したためである。
市場で特定の商品が標準になる場合には、二種類がある。一つは、その製品が他の製品と比べて、性能が優秀な場合であり、もう一つは単なる偶然によるものだ。優秀な製品が標準になるのは当然だが、偶然によって標準となったコンピューターのキーボードのような製品は、他の優秀な製品の市場進入を妨げるという点で、
消費者に被害を与える。
政治における大勢論も同様の役割を果たす。特定候補が大勢論を追い風にする理由は、多くの人々がその候補者の当選の可能性が高いと信じるからだ。これは、政治資金や人々を集中させ、これを通じてさらに多くの有権者の支持を得るという循環をもたらす。候補者の卓越した力量とビジョンが大勢論の根拠なら、有権者にとって歓迎に値することだ。乱立する候補者たちの政策と指導力を一つひとつ比較するのにかかる時間と努力が節約できるからだ。しかし、慣れているという理由だけで標準になった非効率なキーボードのように、単なる高い知名度が大勢論の根拠なら、問題は深刻だ。なかでも候補者の高い知名度が、単に前の選挙に出馬した経歴によるものならなおさらである。
選挙で落選したという経歴は、候補者への検証で一度失敗したことを意味するため、候補者の汚点となり、決して資産にはならない。にもかかわらず、落選は次期選挙で高い知名度というプレミアムを与える。このプレミアムが大勢論の核心になっては困るのだ。根拠のない大勢論は、新進の候補者への客観的な検証を困難にし、公正な競争を妨げるためである。
過去の軍事独裁時代には、選挙の公正さに不満を抱く候補者が、再出馬することが慣行であった。しかし、民主時代の選挙には変化が求められる。大統領は敬老党の老人会長ではない。列の先頭に並びさえすれば、いつか当選できるという先例を作れば、当選の可能性もない候補者たちが、まずは出馬してみようと思うだろう。このような出馬は、世論をわい曲させて、とんでもない選挙結果をもたらす恐れがあり、有権者は候補者を二度も三度も検証しなければならない不幸を繰り返すことになる。
従来のコンピューターのキーボードが不便であるにもかかわらず、旧式が標準として残っている理由は、「慣れ」と決別することが簡単ではないからだ。不便なキーボードは、最初に少し苦労して覚えさえすればいいものの、大統領は一度選んだらその影響が何世代にもわたって継続する。大勢論に振り回されず、すべての候補者の資質をしっかりと検証しなければならない理由がまさにここにある。
新式のキーボードが実用化されるには、臨界数字(critical mass)の30%程度のユーザーが、一斉に新しいキーボードを使わなければならないという。大勢論が根拠がないならば、これをうち破って何らかの変化を生み出すためには、みんなが「イエス」と言う時に、少なくとも30%の有権者が「ノー」と答えなければならないということだ。与党民主党と野党ハンナラ党の選挙人団の中で、一般国民の割合は50%にのぼる。これは、原点から補者たちの資質を客観的にしっかりと比較した後、根拠のある大勢を作り出すのに十分な数だ。
しかし野党ハンナラ党では、国民参加の党内予備選挙の意味を生かすことが難しくなった。有力なライバル候補の朴槿恵(パク・グンヘ)副総裁が離党を宣言したことで、予備選挙そのものが無意味になったためだ。朴副総裁の離党が、大勢論に立ち向かう勇気ある行動だったのか、大勢論の次期主人公になるための計算
だったのかは、もう少し見守る必要がある。しかし明らかなことは、李会昌(イ・フェチャン)総裁が大勢論に寄りかかって、積極的な政党改革を先送りにしたために、朴副総裁がこれを離党の名分にしたという事実だ。
このように大勢論は、公正な競争を妨害するという点で、他の候補者にも被害を与えるものの、時には自分自身にブーメランとなって跳ね返ってくることもある。この悪循環の鎖を断ち切るためには、有権者が大勢論に惑わされず、理性ある独自の選択をする道しかない。そして国民も、米国のように大統領選挙に失敗した候補は、いったん政治の一線から退かざるを得なくなるという文化を定着させていかなければならない。
チョ・ギスク梨花(イファ)女子大学国際大学院教授(政治学)






