「なぜ大統領がになりたいのか」
次期大統領選挙に出馬を希望する人々にぜひ問いたい言葉だ。なぜそんなことを言うのか、と言うかもしれないが、それこそ分かっていない言い方だと言うしかない。大統領にならなければならない理由は、多くの人がしきりに問うほどいい。国民はこれまで、大統領選挙に名乗りをあげる多くの候補者に、とりわけ大統領になった人々に、このような問いかけを十分にしてこなかった。「周知のことなのに、今更尋ねる必要があるのか」と言うかもしれないが、そうではない。昨今、韓国社会が目の当たりにしている内外のつらく苦しい状況を考えてみよ。そんなつらい目に遭う原因の1つが、大統領になろうとする理由を十分に問いたださなかったからだ。大統領選挙に出馬する人に、重大な大統領職への緊張感を与えなかっただけ、社会全体が困難を味わったのではないだろうか。一言で「大統領検証」が不十分だったためだ。選挙時に国政の重大さを厳しく押さえておいたならば、心掛けも新たにしていただろうし、後の失策も減らせただろう。
大統領候補になろうとする人なら優れた人だろうし、そのうえ地縁や学閥がしっかりした人なら、もっと優れた人だろうから、これ以上問いただす必要もないというのが、選挙の度に国民が経験してきた正直な現実だ。そうなると支持はもっと単純になって、ほとんど盲目的になってしまうものだ。その過程で候補検証と大統領検証はうやむやになってしまう。マスコミの検証質問がなかったわけではないが、候補たちを緊張させ、有権者たちが問いつめたかった内容を十分に反映していたかは、即答しがたい。
政治に携わる人には、凡人とは異なる動物的な感覚がある。普段は無神経のように見えても、他人が気づく前に逸早く選挙日を目指して「突撃」態勢を整えるのを見ると、開いた口が塞がらない。1年後、2年後を視野に入れた政策づくりは力に余っても、選挙日を控えて「あと何日」式の逆算術には秀でている。5年も待った大統領選挙だから、その焦りは分からないでもない。
大統領選挙まで約1年を残した現在、与党の台所事情は慌ただしい。7、8人が直・間接的に大統領選挙候補選びに出馬の意向を明らかにしている。前回の選挙当時の与党の候補乱立に迫る勢いだ。他の派閥はもとより、選挙が差し迫れば無所属候補も現れるだろう。大統領選挙出馬に失格条件がなければ誰でも出馬できるとはいえ、こんなに大統領志望者が多くては、何だか苦々しい思いがする。大統領職が人気職だから殺到するのではないはずだ。ならば落ちてもいいから一度出馬してみようというのだろうか。その程度にまで大統領職の価値が切り下げられたというのだろうか、しっくりしない。「出馬できない理由はない」と血気にかられ、名もない凡人があちこちから乱入する風土になれば、たまったものではない。ただでさえ、国民の信頼が低下しつつある政界に、そんな風まで吹きつければ、選挙が滑稽なものとなり、韓国政治はそれこそ矮小化してしまう。候補検証と大統領検証の必要性を殊更に強調する理由はまさにここにある。
最も厳しい検証は自己検証だ。長所と短所を最もよく知る者が、自分を除いて他にいるだろうか。まず、大統領候補選で勝てるかどうかを真剣に判断すべきだ。その場しのぎに支持者をかき集め、力で攻めたところで勝てないことは百も承知だ。回りの応援もあるので、一か八かやってみて、いざとなれば連立なり連帯なりの党内外の駆け引きで名を上げようという考えなら、それはまさに国民を無視し愚弄することだ。それこそ許されられない野合であり、政商がやるようなことだ。多くの場合、候補志望者は「私はだれか」を掲げる。しかし、それは内外に新たな地平を開く創意的な国家経営能力を保証するものではない。これまでアピール力があった民主化闘士である歴代大統領から、国民はその虚実をその目で確認し、生活の中で身をもって体験した。その苦痛と混乱は、検証がろくに行われなかったためだ。国政のビジョンを提示すると言って美辞麗句をいくつか連ねる検証のないスローガンが通用する時代はもはや過ぎた。有権者は以前の有権者ではない。低質商品を一目で選ぶことができる「政治消費者」なのだ。自己検証から厳しくしなければならない。それでも候補者になるというなら、再度問う。「なぜ大統領になりたいのか」
崔圭徹(チェ・ギュチョル)論説室長
崔圭¥¥¥徹 kihang@donga.com






