金大中(キム・デジュン)大統領が、民主党総裁を辞任した。いっそ脱ぎ捨てたと言った方が適切かもしれない。民主党はもはや父親のいない子になったも同然だが、自立の条件がついに整ったと言う人もいるかもしれない。しかし、自立と言うには、行く道はなお険しい。総裁と大選候補を選出してからも、カリスマが消えた跡を何かで埋めなければならないからだ。私は、金大統領だけは前政権の前轍を踏まない例外であることを望んだ。しかし、遅々として進まない改革政治、支離滅裂な改革勢力、与党の内紛と脆弱さなどは、従来の政権と大差がないことを物語っている。権力継承問題で追われるように総裁職を捨てた歴代の大統領らと、なんとまあ同じ道を歩んでいることか、そうすれば汚点のない退陣が可能であるとでもいうのだろうか。執権よりも「名誉ある退陣」がより難しいことが、韓国政治の現実であることを考えれば、これからの1年間、国民が目にするかも知れない見苦しい政治を考えると、急に怖じけづいてしまう。
2つの民選政府が、国民に植え付けた民主主義は「うるさくて」「煩わしく」絶えず「駄々をこねる」ようなイメージだ。さっぱりして気持ちよくことが処理されて、紳士らしく争って潔く退くといったイメージとは程遠い。そのため多くの人々は、権威主義をしばしば懐しむ。もう少しましな民主主義に向けた歩みに、ブレーキがかかればかかるほど、権威主義への郷愁がじわじわと沸いてくる。危険な現象ではあるものの、現在の韓国政治の現実がそうなのだ。
民主主義をマイナスイメージとして印象づけたのは、何よりも権力承継の問題だ。与党の内紛状態は、神聖な名分を掲げた新党創設や合従連衡の流れの中で、自然に解消されることなので、そう切迫した問題ではない。しかし、権力継承は次期政権においても頭を痛める弊害であるため、これだけは賢明に制度化の道を探らねばならない。なぜこのように問題視されるのか。それは次の3つの要因で説明できる。
第一に、すべての権限が大統領に集中している。それはしばしば改革政治の跛行を生む。閣僚や与党の政策チャンネルは十分に作動しない反面、大統領を取巻くグループの比重が大きくなるのだ。選挙の惨敗と支持率下落の責任を東橋洞系に象徴される家臣グループに転嫁する名分でもある。しかし、東橋洞系を追い出したからといって、継承問題が透明になるわけではない。
第二に、権限の集中は、権力分散による責任政治の可能性を封じ、後継者らが政治力を養う機会を奪う。そうであるほど後継者らは国民の関心を引く言葉を開発することに神経を尖らせ、国家の大小の事柄にやたらに介入する。
第三に、後継者は党の代議員選挙で選出される。国民は代議員がどういう人物であるかわからないが、後継者には国家政策よりも彼らがより重要だ。個人的ネットワークと縁故を最大限に活用し、支持を得ることができれば言うことはない。派閥と支持者を管理するには莫大な費用がかかり、時には政治的駆け引きが行われる。政治腐敗はすでに派閥管理で始まるが、大統領になった暁には、守らなければならない内密の約束が人事の乱脈の様相へと発展する。
これを突破すれば、同じ経路が当選者を待っている。5年単任制は、統治者に息を切らせ、能力以上の計画を乱発させるようにする。ビジョンと能力の格差という改革政治の罠を迂回する余裕がないのだ。そうして短期間権力を行使し、改革政治を叫びつつ、歴代の統治者が歩んだ「行ってはいけない道」に仕方なく入り込むのである。
後継者を選出して大統領選挙を行ない、再び改革政治の手綱を締めるのに1年もの歳月を要するとしたら、ただ事ではない。権力の空白が発生する1年の間、手がけておいた改革成果が原点に舞い戻ったり、その成長が止まってしまうからだ。こんな無駄遣いを繰り返さないためにも、次の2つのことが急務だ。執権当初から後継者に国政参加の機会を与えなければならない。改革政治の1部分でも任せて経験を積ませたり、能力を検証する機会にしなければならない。5年単任制の根本的再考と大統領に集中した権限を政党に分散させることも、政党政治の活性化と後継者問題解決に必要な措置である。






