毎朝新聞を読む時、欠かさず読む欄がある。今日の運勢の欄だ。時と場所に会わせて行動せよ、とか大きな欲を出さないこと、などといった短い一言なのだが、今日1日がこの言葉とどのような関連を持つかが楽しみで、1日が終わりかける時、今日の運勢に何が書いてあったか振り返って見る事がある。私のこのような姿を見て、誰かが「迷信なんか信じちゃって・・・」などとせせら笑ったとしても全く気にかけない。迷信と馬鹿にされていることにもそれなりの合理性があるからだ。
‘迷信は人間を魅惑する信仰である’という意味であるため、この世を混乱させ、人間を騙すという‘惑世誣民’の信仰を略して読む否定的な言葉だ。しかしこの迷信によって人に害を与えることなく、自分自身のためにもなるとすればどうであろうか?
朝一番に女性が自分の前を横切ったり、その日の最初の客が女性だったら、その日は運が悪いと信じている男がいたとしよう。彼はその日一番に店を訪れた女性の客に嫌な顔をしたり、もしくは嫌みを言ったりするはずだ。その女性の客は嫌な気分になるだろうし、男尊女卑的な思想の強い韓国社会に自分が生きている事実に対し悲哀と怒りを感じるに違いない。こうした彼の考えと行動は罪のない女性に暴力を振ったと同様であり、男性が女性と共に生きている今日の世の中を錯乱させていると言えよう。このような時、「彼は迷信的な態度を取っている」ということができる。しかし彼はどうしてそのような迷信を信じるようになったのだろうか?
未来が分かる人はいない。将来、どんな事が起こるか分からないからこそ、人々はいつも不安を抱いているのだ。しかしそんな不安にさいなまれ、自信のない態度を取り続けながら生活するよりは、「間違いなく上手く行く」という確信を持って事を処理する方が生きていくには効果的であるだろう。男女を区別し、家の外と内にそれぞれの活動領域を決めていた社会では、女性が朝早くから出掛けるということは珍しい事だった。万一、そんな珍しい事に遭遇した時、「運が悪い」と信じるならば、残りは運が良い日だということになる。だから多くの人々は今日は(幸運を)期待してもいいと楽観しながら1日を送れる。
しかし問題は時代が変わり、女性の社会参加が活発になった今日まで、このような態度を持ち続けている人がいるという点だ。万が一、今もこのような態度を持ち続けている人がいるとすれば、彼は自らを虐待している人間だといえるだろう。今日も明くる日も祟りを被ることになってしまうからだ。そして自分だけが運が悪い日になるのではなく、罪のない女性までも運の悪い日にしてしまうとすれば、そのようなジンクスこそまさに迷信だ。
しかし1日の運勢を見て、「今日1日はこうだ・・・」と考える私の習慣は迷信とはいえない。他人に被害を与えていないだけでなく、世の中にも迷惑をかけておらず、しかも生きる手助けとなっているからだ。






