1882年、大韓帝国が米国と結んだ米朝修好通商条約の漢文本第1条には、「大韓朝鮮君主と大亜美理駕(大アメリカ)合衆国大統領は、もし他国が不公軽侮(馬鹿にし侮辱)されることがあった場合、必須相助する(必ず助け合う)」という文句が含まれている。当時、高宗(コジョン=朝鮮第26代王)をはじめとする為政者たちは、「必須相助」という言葉を米国の朝鮮に対する防衛公約と認識し、天のように崇めた。
◆しかし、条約の英文本には「必須相助」に当たる単語がなく、朝廷はその事実すら知らなかった。それもそのはず、当時米国との修交交渉を担当した人々は、韓国人ではなく清の権力者・李鴻章が送った中国人だったからだ。大韓帝国には、漢文本と英文本を照らし合わせるほど、英語力を身につけた外交官もいなかった。韓国が欧米国家と行なった初の「開国交渉」は、このように危なげなものだった。
◆翌年、ルシアス・フートが米全権公使に赴任した時、18歳の青年だった尹致昊(ユン・チホ)が通訳で同行した。しかし当時、尹致昊は、駐日オランダ領事館の書記官に1日に1時間、5ヵ月に渡って英文法を勉強した程度だった。一方、朝鮮よりも28年先に米国と条約を結んだ日本はオランダ語で交渉し、条文の検討と翻訳を「日本初の米国在留者」のジョン万次郎に任せた。ジョン万次郎は、批准書交換のために米国を訪れた際、書店で流暢な英語でウェブスター辞書を求め、米国人を驚かせたという。
◆韓米自由貿易協定(FTA)交渉妥結をめぐり、「第2、第3の開国」という言葉も聞かれる。表現が適切かどうかは別として、その言葉には125年前の痛恨の歴史が含意されている。しかし、今は違う。金鉉宗(キム・ヒョンジョン)通商交渉本部長と金宗壎(キム・ジョンフン)首席代表をはじめとする交渉参加者たちは、英語はほとんど問題にならなかった。それだけでなく、韓国企業は世界を牛耳っている。にもかかわらず、「対米従属」云々する主張が出ている。意識の時計が過去で止まった人々が相変らず多いためだろうか。
金昌赫(キム・チャンヒョク)論説委員 chang@donga.com