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多民族の不安な同居「昔はよかった」

Posted July. 08, 2005 05:20,   

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コソボからマケドニアへ渡ることは容易ではなかった。

5日午後遅く、国際移住機関(IOM)の招請状を持って国境に着いたが、国境守備隊は「IOMが直接書類を送らなければならない」とし、入国を阻んだ。

結局、コソボのプリシュティナから南へおよそ1時間半ほど車で走った道を戻るしかなく、また1泊をした後、6日午後になってやっと国境を越えることができた。

首都のスコピエは平和な欧州の小都市とそれほど変わらなかった。貧乏と混乱にまみれたアルバニアや、まだどこで何が起きるか分からない不安感が漂うコソボとは、雰囲気が全く違った。

しかし、マケドニアはバルカン地域の中でも人身売買と組織犯罪で悪名高い国。暗殺はスラヴ系マケドニア人の「特技」と言われるほどだ。独立して10年余りが経ったが、国家らしい姿は整っていない。

人口のおよそ65%を占めるスラヴ系と、アルバニア系やセルビア系など多くの少数民族で構成されているマケドニアは、ユーゴ連邦の崩壊後、ギリシア、アルバニア、ブルガリア、セルビアなど、いわゆる「4匹のオオカミ」に餌のように扱われた。

特に、ギリシアは「マケドニア民族」はスラヴ系共産主義者の発明品に過ぎず、スラヴ人が「ギリシア人アレクサンダー大王」の王国名を使うことはできないとし、マケドニアの締め付け政策を続けてきた。ギリシアはマケドニア独立直後から国境の封鎖措置を取っており、欧州諸国の援助資金まで阻止した。ギリシア人は今でも、マケドニアをただ「スコピエ」と呼ぶ。

1998〜99年のコソボ紛争は、マケドニアの危機をさらに増幅させた。アルバニア系コソボ人60万人余りが一度に国境を越えてきて、マケドニアの西部地域は難民村になってしまったし、それ以降、北大西洋条約機構(NATO)軍の駐屯により、スコピエはコソボ駐在外国人のセックス観光地に転落した。

2001年、人口の20%を遥かに超えるアルバニア系反軍勢力の蜂起で内戦直前の危機に瀕し、どこであろうと武器と麻薬を簡単に手にすることができる「脆弱国家」になってしまった。

アルバニア系の反乱以後、マケドニア政府はEUが示した仲裁条件によって、首相はスラブ系、副首相はアルバニア系が受け持ち、長・次官も双方で分け合う奇妙な同居が続いている。

一応、危機を乗り越えたものの、マケドニアの向かう道は険しい。根深い腐敗が特に問題だ。「プロメディア」というマスコミ団体を率いるクリメ・バブンスキ氏は、「国境を出入りする人身売買や麻薬・武器の密売には犯罪組職が介入しており、彼らの背後には警察や政治家などの権力層が庇護勢力として存在している」と話した。

マケドニアの多民族の同居は、いつ崩壊するかも知れない不安を抱いてはいるものの、これからの進み具合によっては、同じ問題を抱えた周辺国家にモデルになることもできる。昨年、米国は全世界で初めて「FYROM」ではなく「マケドニア」という名前を認めた。「民主主義を約束したマケドニアに対する補償措置」という声が多かった。



klimt@donga.com