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[オピニオン]時代錯誤な「遵法誓約書」

Posted May. 06, 2002 09:56,   

憲法の目は、過去の中に閉じこもっているのか、それとも未来に向かって開いているのか。憲法の内容を確認する憲法裁判は、過去の決議を確認するための誓いなのか、それとも未来に向けた青写真の提示なのか。

4月25日、韓国の憲法裁判所は「未来」に向かって進歩するのではなく、「過去」を保守することを誓うかのような決定を宣告した。いわゆる思想犯を刑期満了以前に仮釈放する条件で「遵法誓約書」を要求するのは、憲法が保障する良心の自由を侵害しないというのがその要旨だ。なぜか1950年代「国民学校(当時の小学校の名称)」の朝会に先立って全校生徒が口を合わせて叫んだ悲壮な「我々の誓い」が連想される。「我々は大韓民国の息子、娘は、死んで国を守ろう!」という。

国民の基本的人権の保障機関である憲法裁判所の決定は、世の中が変わりつつあるという事実を無視した時代錯誤な発想だというのが、海外の法律家たちの評価だ。オリンピックを開いたのが一昔前、目下W杯開催を目前に控えていて、経済協力開発機構(OECD)加盟国ともなった国の最高憲法保障機関に相応しくない決定だという意味だ。

この評価には、分断国家の事情を知らない異邦人ののんきな寝言として済まされない何かがある。民主主義が成熟し、ある程度の経済レベルに達した国なのに、人権保障のとりでである憲法裁判機関の決定が依然として人権後進国の汚名をそそげずにいるからだ。

韓国憲法には、思想の自由が明文化されていない。だからといって、憲法が思想の自由を拒否しているのではない。思想の自由は、あまりにも自明な自由民主主義憲政の基本要素だからだ。ただ、この地に自由民主主義が定着する過程で通ってきた激動の現代史において「思想」という言葉がかもし出す不穏と血のにおいゆえに、あからさまに憲法典に載せることができなかっただけだ。しかし、韓国憲法において思想の自由が憲法第19条の保障する良心の自由の中に含まれているというのは、裁判所と憲法学会の一致した解釈だ。

思想という良心は、国家が強要できるものではない。誰もが他人と異なる哲学、宗教を持てるように、異なるイデオロギーも信奉することができる。仮にそれが多数の基準から見て、根拠のないでたらめなものだったとしても、当事者自身が真剣に信じている以上、最大限尊重しなければならない。尊重できないとしても、少なくとも決して弾圧してはならない。

法と制度の中には、多数者の倫理と価値観が確固として位置付けられている。しかし、現在の多数者の倫理と価値観が常に支配的地位を持ち続けるわけではない。それは、過去の多数者のイデオロギーに反する少数者の頭の中で宿った論理や価値観であったかもしれないし、将来またもや少数者のイデオロギーに転落する可能性もある。多数者のものである法と制度が少数者の思想を抑圧してはいけない理由は、このように思想の世界には絶対的に優位なものがないからだ。

問題の遵法誓約書は、かつて施行していた「思想転向書」の直系子孫だ。思想転向書は、韓国の国家保安法が世界の自由民主主義国家から指弾され、たぐい稀な悪法としてらく印されるのに一助した制度だった。遵法誓約書は転向書とは違うと政府は主張する。単に「法を守る」と約束することは問題にならないと、裁判官らは考えている。しかし、名前を変えて成形手術をするからといって、実態が変わるわけではない。この制度が誰にどのように適用されているかを考えれば、容易に気がつく。それくらい当然な制約書ならば、なぜ全ての犯法者に同様のことを要求しないのか。

百歩譲歩して、遵法制約書が過去の転向書と本質的に異なり、それゆえ憲法が保障する良心の自由に反する悪法ではないとしよう。しかし、今やもう必要でない制度であることは明らかだ。韓国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が互いに体制競争をしていた時代はもう終わった。我々の制度が北側より優れているということは、もはや証拠を必要としない公知の事実だ。その比較優位の中核が、「この地(韓国)には他の思想に対する寛容がある」という事実だ。その中核に疑問符をつけなければならないほど大韓民国は余裕のない社会なのだろうか。

決定を下した憲法裁判官らの所信と哲学に敬意を表したい。しかし、時代を見極める目、少なくとも現実を正しく把握する知恵が望まれる。不幸中の幸いは、二人の裁判官が精巧な論理にもとづいて反対意見を出したという事実だ。少数意見が後日多数意見に昇格することを、我々は歴史の反転と呼ぶ。進歩する歴史に必要な眼目と見識の芽が摘まれていない以上、今も我々は憲法裁判所に希望と期待をかけている。

アン・ギョンファン、ソウル大教授(韓国憲法学会会長)