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加害者の傷

Posted October. 20, 2021 08:50,   

Updated October. 20, 2021 08:50

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寛大な人々がいる。自分を傷つけた加害者にさえ寛大な人々がいる。アイルランドの作家サリー・ルーニーが書いた「ノーマル・ピープル」の主人公マリアンがそうだ。彼女はいつも学校で仲間はずれにされていた。特に、2人の男子生徒がひどかった。彼らのうちの1人は、別の生徒たちが集まっている席で彼女の胸が平たいと言い、侮辱的な言葉をお互いにささやいた。彼らはさらにひどいこともした。中学、高校に通っていた時のことだ。18歳のころだった。

彼女は卒業から数年後に彼らを許す。加害者の一人は死んで許せなくなったが、もう一人が謝るとすぐに許す。自殺した友達もあらかじめ許してあげられたらどんなに良かっただろうか。その友達も心の中ではきっとすまないと思ったはずだ。彼女が寛大なのは、傷は被害者にだけ生じるのではなく、加害者にも、もしかしたら加害者により大きな傷が生じると考えているからだ。「残忍な行動は被害者を傷つけるだけでなく、加害者をもっと深く、もっと永久的に傷つけることになるかもしれない」。とんでもない考えのようだが、人間を善良で倫理的な存在として想定すれば、いくらでも可能な考えだ。彼女は被害者も苦痛と傷から学び、加害者も誤った行動をしながら「忘れられない何かを知ることになる」と考えている。これが彼女が悪かった人たちを気の毒に思う理由だ。加害者であれ被害者であれ、傷を通じて学び、変わるという信頼があるのだ。

被害当事者でないにもかかわらず、加害者に向かって殺すように石を投げるサディスティックな文化を考えれば、人間の本性に対する彼女の楽観は、多少無邪気に見えるかもしれない。しかし被害者である彼女が見せてくれる眩しい寛大さも、その寛大さが想定する加害者の善良な倫理的本性も、私たち人間の一部だ。それだけでも人間はすでに美しい。