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悲しみの形

Posted March. 15, 2021 08:25,   

Updated March. 15, 2021 08:25

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あなたの悲しみと願い、通り過ぎる思いの片鱗と美しさに対するあなたなりの信頼などを描写してみてください。これらを穏やかで控えめな率直さで描写してください。 (ライナー・マリア・リルケ「若い詩人への手紙」)

つららが恐ろしくぶら下がる冬の朝、走り書きの湿っぽい日記、アンデルセンの雪の女王、短くなった4B鉛筆、キムジャン(越冬用のキムチを漬つけること)をするお母さんとおばあさん、垣根の野ばらの薄緑色の棘、おばあさんの垢をするお母さんの背中、くすんだおばあさんの肌のにおい、死んだおばあさんの顔に顔を擦るお母さん、悲しみを描くなら、このような後ろ姿だろうか。

「バラよ、お!純粋な矛盾よ」。墓石にあるように、リルケはバラを愛した。彼はバラのとげに刺され、破傷風でこの世を去った。とても小さなとげに刺さった傷で死んだなんて、些細な死、些細な悲しみだなんて。

私の最初の詩集「私は天使から言葉を学んだ」が世に出た時、一番多く受けた質問は悲しみとは何かということだった。悲しみは喜びと一身で成り立っていて、悲しみの実存を感じて初めて分かることがあり、そうして私たちはだんだん人間に近づいていく。小さな点から人間に育って、腕と足で世の中を踏み、見て触って感じながら人間が持った二つの翼、すなわち二つの耳で悲しみを聞くしかない存在ということ、泣き声が甘えになる年齢について、息が切れた人がこれ以上口を持てない存在を知ること、今になって「私」を可能にしてくれた「存在と喪失」を聞く。

おばあさんの墓場で白い木蓮が揺れる時、ただうつぶせに泣くしかないことについて、お母さんのまつ毛がぶるぶる震える時、窓の外の街灯の下に輝く雪片について、純粋な矛盾のかたまりがいっぱいのこちらの面と、あちらの世界について…。私たちは光の片鱗で、悲しみが来る方向にそっと腰をかける。